「1974年度 (昭和49年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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==運動会の思い出 斉藤理夫==
==水越先生の思い出 糸永全宏==
 私が小山台に在学していた昭和四○年代前半の世間は学園紛争が花盛り、よって母校の各教室でも、「何故卒業式で国歌が斉唱されねばならぬのか!」「学生帽が要求されるのは何故か!」等々万事白熱した談論がなされ、全員真剣に考えて大いに燃えた。<br>
 私が水越先生について思い出すことはチョークを使用しないで、黒板に画用紙をつり下げるユニークな授業もあるが、まず第一には非常に研究熱心な先生であったことです。
昼販は校舎の脇に建つ掘っ立て小屋で喰うラーメンであり、これは何となく「ばんから」を気取って大変気に入っていた。八角塔下踊り場で菓子パンを買っている連中は軟弱と思った。<br>
 例えば、生物の教材として「アルテミァ」(シーモンキーという名で市販されている)に注目したが、当時、市販のメーカーでさえ、生育の条件が分かっていなかった。先生は、それを解明するため、学校の生物室はもちろん、自宅のいろいろな条件の場所にアルテミアの飼育器を世いて、四六時中研究しておられた。その結果、ふ化や成育の条件から、生物的特性に至るまで解明され、種々の科学雑誌やTVで発表されて「アルテミァ」を基本的な生物教材にまで高められた。
過日娘の連動会を見ていたら、当時都内最高の迫力と、自負した母校の運動会風景が鮮かに甦った。いや、むしろ運勤会に至る迄の初秋一力月間の猛練習が深く想い出され胸が熱くなった。「棒倒しの体の支え方」「百足競争での呼吸の合わせ方」「応援合戦の迫力の出し方」、どれも重要事項として真剣に検討し練習した。連日放課後、日の暮れる迄練習することは苦痛である筈だが、大半の生徒に愚痴は無かったと記憶している。<br>ひとつの目標に向かって気持が高揚していく集団のパワーを体験し、ある程度会得したことは、当時落第生であった私にとって何よりりの収穫であった。<br>運動会終了後の感激と、直後に訪れた虚脱感も今となっては魅力であったかもしれない。<br>
 またそのために、都内・近県の高校から、我が生物班を訪ねて来たり、遠くは高知の高校から、班誌を求められたりした(当時の生物班は班誌を作っておらず、丁寧に御断わりしたのだが)。
(高21回・昭44年卒 三菱信託銀行㈱横浜支店)(「60周年記念誌」P180より抜粋)<br><br>
 そして、もう一つ思い出すことは、生徒の自主性を重んじていたこと。生物の授業もそうであったが、生物班の活動について特にそうであった。班員に研究を強制することはなく、自主的に研究ができるよう物心両面から御助力いただいた。例えば。いつでも自由に実験ができるように生物室のカギを班員に渡していたり、班員の相談に遅くまでのっていただいた。このような水越先生の影響を受け、生物班は解放的であり、当時の生物室はいつでも活気に満ちていました。
<br>(高27回・昭50年卒 藤沢薬品工業)(「創立60周年記念誌」P192より抜粋)<br><br><br><br>


==水泳大会と三年B組のこと 井上雅一==
==保健室の名物先生 大和久清子(旧姓 鍵野)==
 昭和四三年九月九日(月)、我々三年生の水泳大会が行われた。水泳大会に臨む我がクラスの方針は「全員参加」であった。これには二つの意味があったように思う。一つは参加する事に意義があるのだから、犬かきでも良いから出る。もう一つは、勝敗にこだわらず、一人でも多くの級友がどれかの種目に参加出来るようにする。従ってバタフライ・背泳のように泳法が限られている種目から、メンバーを割り当てて行ったので、六○○米リレー(二五米ずつ二四名が出る)では、途中で息つぎを必要とする人や、バタ足だけの人も入る事となった。当然の事ながら、この友人達は深い方から浅い方へ泳ぐ。一年の水泳大会のときに逆に泳いで来て最後の五米の深い所で力尽き、沈みかけた友人がいたからである。<br>
  私が中学生の頃に目指していた仕事は、「通訳」でした。ところが、現在私は養護教諭として小学校に勤めています。「通訳」から「養護教諭」へと心が動いていったのは、小山台高校での三年間と深い関係があります。それは、「保雌室の名物先生」こと斎藤千代先生に巡り会えたからです。<br>
 しかしながら、当時、女子の何名かは水着を持参しなかった。曰く、「泳げないから」「体の調子が悪いから」。これには少々ガッヵリした。結局、女子のリレーは人数が足らず、棄権する事になった。それでも「全員参加」の方針通り、残りの女子全員で途中まで泳いだ。太田由紀恵さんは、泳げないのでバタ足で参加した。最後の一人か泳ぎ終わるまで級友達が懸命に応援したのに、その後に誰も泳ぎ継ぐ者がいないのは、他のクラスから見ると不可解だったかも知れない。<br>
 私が千代先生に初めてお会いしたのは、私が級友の陰謀によって保健委員になり、初めて委員会に出席したときでした。そのときの私の印象は「はつらつとして、高らかな声の先生」というものでした。そして、それまではたいへんおとなしく、存在感のない生徒だった私が、千代先生に励まされ、副委員長を務めるほど活発な生徒へと変身していきました。その当時の思い出を少しあげてみます。文化祭の準備で遅くなるため、何かおなかの足しになるものを・・・と作ったソース味のお稲荷さん。運動会の練習や当日の目がまわるほど忙しかった救護活動。千代先生とダンナ様の出会いから結婚までのラブストーリーや、結婚しても女性が仕事を続けていくためのダンナ様教育法といったプライベートなお話までも伺いました。他にも数々の思い出がありますが、それらは、私の高校生活をより楽しいものにしてくれました。<br>
 こうして、水泳班所属の友人が出場した種目と幾つかの例外を除けば、成績は芳しくなく総合成績は八クラス中、最下位になった。しかし我々は誰もそれを口惜しいとも残念とも思わなかった。全員参加をクラスの大方針にしてその通り実行したのだから。<br>
 今、私は養護教諭として、千代先生が歩んでいらした道を歩んでいます。そして、それは私にとってとても素晴しい道です。子供達と接することは楽しいことであり、また、私を勇気付け、奮い立たせてもくれます。「こんな素暗しい仕事があるのよ。」と,身をもって教えてくださった千代先生に、心から感謝するとともに、こんなに素敵な千代先生の活動の原動力になっている六○歳の小山台高校に「これからも、もっとがんばれ!」と、声援を送りたいと思います。<br>
 我々はこの大方針を一ヵ月後の運動会にも掲げ、今度は勝った。そして我々のクラスは高校を卒業した年から一五年間、毎年一回も欠かさずクラス会を続けている。<br>
(高27回・昭50年卒 東京学芸大学附属世田谷小学校養護教諭)(「創立60周年記念誌」P193より抜粋)
(高21回・昭44年卒 協和銀行システム開発部主任)(創立60周年記念誌」P180より抜粋)
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2025年3月13日 (木) 09:23時点における版

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1974(昭和49)年度

できごと 詳細・引用・寄稿
4月 2日 始業式

4月 3日 健康診断
4月XX~XX日 開校記念日
5月 4日 春の遠足
5月XX日 中間考査
5月XX~XX日 PTA総会
5月XX日 3年ア・テスト
6月XX~XX日 期末考査 生徒総会
6月XX日 終業式
7月X~XX日 林間学校


9月1日 始業式
9月2日~4日 ア・テスト
9月9日~11日 水泳大会
9月XX~XX日 運動会、X・X日代休
10月XX~XX日  中間考査
11月XX~XX日 2年修学旅行
11月XX日~XX日 3年ア・テスト
11月XX日 生徒総会
12月XX~XX日 期末考査
12月XX日 終業式


1月X日 始業式
1月X~XX日 1・2年ア・テスト
1月XX日 3年ア・テスト
1月XX日 ロードレース
3月X~XX日 期末考査
3月 8日 卒業式 中八回生(男子190名)
3月XX日 終業式

水越先生の思い出 糸永全宏

 私が水越先生について思い出すことはチョークを使用しないで、黒板に画用紙をつり下げるユニークな授業もあるが、まず第一には非常に研究熱心な先生であったことです。  例えば、生物の教材として「アルテミァ」(シーモンキーという名で市販されている)に注目したが、当時、市販のメーカーでさえ、生育の条件が分かっていなかった。先生は、それを解明するため、学校の生物室はもちろん、自宅のいろいろな条件の場所にアルテミアの飼育器を世いて、四六時中研究しておられた。その結果、ふ化や成育の条件から、生物的特性に至るまで解明され、種々の科学雑誌やTVで発表されて「アルテミァ」を基本的な生物教材にまで高められた。  またそのために、都内・近県の高校から、我が生物班を訪ねて来たり、遠くは高知の高校から、班誌を求められたりした(当時の生物班は班誌を作っておらず、丁寧に御断わりしたのだが)。  そして、もう一つ思い出すことは、生徒の自主性を重んじていたこと。生物の授業もそうであったが、生物班の活動について特にそうであった。班員に研究を強制することはなく、自主的に研究ができるよう物心両面から御助力いただいた。例えば。いつでも自由に実験ができるように生物室のカギを班員に渡していたり、班員の相談に遅くまでのっていただいた。このような水越先生の影響を受け、生物班は解放的であり、当時の生物室はいつでも活気に満ちていました。(高27回・昭50年卒 藤沢薬品工業)
(「創立60周年記念誌」PY192)

保健室の名物先生 大和久清子(旧姓 鍵野)
 私が中学生の頃に目指していた仕事は、「通訳」でした。ところが、現在私は養護教諭として小学校に勤めています。「通訳」から「養護教諭」へと心が動いていったのは、小山台高校での三年間と深い関係があります。それは、「保雌室の名物先生」こと斎藤千代先生に巡り会えたからです。
 私が千代先生に初めてお会いしたのは、私が級友の陰謀によって保健委員になり、初めて委員会に出席したときでした。そのときの私の印象は「はつらつとして、高らかな声の先生」というものでした。そして、それまではたいへんおとなしく、存在感のない生徒だった私が、千代先生に励まされ、副委員長を務めるほど活発な生徒へと変身していきました。その当時の思い出を少しあげてみます。文化祭の準備で遅くなるため、何かおなかの足しになるものを・・・と作ったソース味のお稲荷さん。運動会の練習や当日の目がまわるほど忙しかった救護活動。千代先生とダンナ様の出会いから結婚までのラブストーリーや、結婚しても女性が仕事を続けていくためのダンナ様教育法といったプライベートなお話までも伺いました。他にも数々の思い出がありますが、それらは、私の高校生活をより楽しいものにしてくれました。
 今、私は養護教諭として、千代先生が歩んでいらした道を歩んでいます。そして、それは私にとってとても素晴しい道です。子供達と接することは楽しいことであり、また、私を勇気付け、奮い立たせてもくれます。「こんな素暗しい仕事があるのよ。」と,身をもって教えてくださった千代先生に、心から感謝するとともに、こんなに素敵な千代先生の活動の原動力になっている六○歳の小山台高校に「これからも、もっとがんばれ!」と、声援を送りたいと思います。(高27回・昭50年卒 東京学芸大学附属世田谷小学校養護教諭)
(「創立60周年記念誌」P193)

世 相

4月20日 上野で「モナリザ展」始まる
8月30日 三菱重工本社爆破事件
10月8日 佐藤栄作氏ノーベル平和賞受賞
3月10日 山陽新幹線が博多まで開通

流行語-オカルト・超能力
流行歌-襟裳岬・あなた・母に捧げるバラード



できごと

04.01 加藤憲市郎実習助手 着任
04.08 始業式
04.08 入学式 高29回生(男子259、女子108、計367名)
04.08 PTA職員金井延氏 死去
04.13 進学懇談会(3年)
04.16 定期健康診断
04.27 PTA職員勝野恭子氏 着任
05.04 開校記念日
05.15 遠足
05.23 中間考査(~25)
05.25 PTA総会
05.28 校内球技大会(~06.01)
05.29 防火訓練
06.12 合唱コンクール:優勝(3A、2C・2E、1C・1D)総合優勝(3A) (~14)
06.17 ア・テスト(3年)(~18)
06.26 精神衛生講演
06.27 生徒総会:(ワイシャツ自由化案 否決、等)
07.09 期末考査(~12)
07.17 歌舞伎教室
07.19 保健室にクーラー取付完了
07.20 終業式
07.22 クラブ合同合宿開始

09.02 始業式
09.03 ア・テスト(1・2年)(~04)
09.03 ア・テスト(3年)(~05)
09.08 同窓会総会(小山台高校)
09.11 水泳大会(~13)
09.21 第29回寒菊祭(~22)
10.06 運動会:優勝(白組)
10.22 中間考査(~24)
11.12 修学旅行(2年)(~15)
11.13 遠足(1・3年)
11.20 ア・テスト(3年)(~22)
11.27 防火訓練
11.29 生徒総会:(図書貸出期間延長案 却下)
12.01 渡辺市治主査 転勤
12.04 健康診断(3年)
12.11 期末考査(~14)
12.16 映画教室
12.25 終業式
12.25 スキー教室(~29)
01.01 田口昇主査 着任

01.08 始業式
01.9 ア・テスト(1・2年)(~10)
01.9 ア・テスト(3年)(~11)
02.01 ロードレース大会:(2H小嶋毅 36分11秒0(大会新記録)、2B沼尻百代 21分32秒8、1A荏原みどり 22分11秒0、1D宮坂美智子 22分11秒0(3名大会新記録))
02.20 水越虔二氏死去
02.22 校内球技大会
02.27 入学選抜学力検査
03.05 期末考査(~08)
03.10 スケート教室(~11)
03.14 映画教室
03.18 卒業式 高27回生(男子270、女子101、計371名)
03.22 終業式


世相

1968年
06.26 小笠原諸島が日本に復帰
10.17 川端康成ノーベル文学賞受賞
12.10 三億円事件
1969年
01.18 東大安田講堂事件(この年東大入試中止)


流行語-ゲバ棒・ハレンチ・ニクソンショック
流行歌-受験生ブルース・天使の誘惑


水越先生の思い出 糸永全宏

 私が水越先生について思い出すことはチョークを使用しないで、黒板に画用紙をつり下げるユニークな授業もあるが、まず第一には非常に研究熱心な先生であったことです。  例えば、生物の教材として「アルテミァ」(シーモンキーという名で市販されている)に注目したが、当時、市販のメーカーでさえ、生育の条件が分かっていなかった。先生は、それを解明するため、学校の生物室はもちろん、自宅のいろいろな条件の場所にアルテミアの飼育器を世いて、四六時中研究しておられた。その結果、ふ化や成育の条件から、生物的特性に至るまで解明され、種々の科学雑誌やTVで発表されて「アルテミァ」を基本的な生物教材にまで高められた。  またそのために、都内・近県の高校から、我が生物班を訪ねて来たり、遠くは高知の高校から、班誌を求められたりした(当時の生物班は班誌を作っておらず、丁寧に御断わりしたのだが)。  そして、もう一つ思い出すことは、生徒の自主性を重んじていたこと。生物の授業もそうであったが、生物班の活動について特にそうであった。班員に研究を強制することはなく、自主的に研究ができるよう物心両面から御助力いただいた。例えば。いつでも自由に実験ができるように生物室のカギを班員に渡していたり、班員の相談に遅くまでのっていただいた。このような水越先生の影響を受け、生物班は解放的であり、当時の生物室はいつでも活気に満ちていました。
(高27回・昭50年卒 藤沢薬品工業)(「創立60周年記念誌」P192より抜粋)



保健室の名物先生 大和久清子(旧姓 鍵野)

  私が中学生の頃に目指していた仕事は、「通訳」でした。ところが、現在私は養護教諭として小学校に勤めています。「通訳」から「養護教諭」へと心が動いていったのは、小山台高校での三年間と深い関係があります。それは、「保雌室の名物先生」こと斎藤千代先生に巡り会えたからです。
 私が千代先生に初めてお会いしたのは、私が級友の陰謀によって保健委員になり、初めて委員会に出席したときでした。そのときの私の印象は「はつらつとして、高らかな声の先生」というものでした。そして、それまではたいへんおとなしく、存在感のない生徒だった私が、千代先生に励まされ、副委員長を務めるほど活発な生徒へと変身していきました。その当時の思い出を少しあげてみます。文化祭の準備で遅くなるため、何かおなかの足しになるものを・・・と作ったソース味のお稲荷さん。運動会の練習や当日の目がまわるほど忙しかった救護活動。千代先生とダンナ様の出会いから結婚までのラブストーリーや、結婚しても女性が仕事を続けていくためのダンナ様教育法といったプライベートなお話までも伺いました。他にも数々の思い出がありますが、それらは、私の高校生活をより楽しいものにしてくれました。
 今、私は養護教諭として、千代先生が歩んでいらした道を歩んでいます。そして、それは私にとってとても素晴しい道です。子供達と接することは楽しいことであり、また、私を勇気付け、奮い立たせてもくれます。「こんな素暗しい仕事があるのよ。」と,身をもって教えてくださった千代先生に、心から感謝するとともに、こんなに素敵な千代先生の活動の原動力になっている六○歳の小山台高校に「これからも、もっとがんばれ!」と、声援を送りたいと思います。
(高27回・昭50年卒 東京学芸大学附属世田谷小学校養護教諭)(「創立60周年記念誌」P193より抜粋)


教職員

職名 教科目 氏 名 担任 校務分掌 班活顧問 就 任 PTA・菊桜会 財団小山台
校長 (社会) 班目 文雄 1973/04/01 PTA顧問 財団理事長
教頭 社会 丸山 外史 1973/04/01 PTA副会長 財団常務理事
教諭 国語 落合 光禎 庶務部長 文芸同好会 1945/09/30 PTA実行委員
安藤 千鶴子 1E 庶務部 華道 1960/04/01
野沢 穣 2C 教務部 ワンゲル 1965/04/01
江藤 秀男 3H 進路部 卓球 1968/04/01
高村 元継 2H 庶務部 新聞 1969/04/01
柳原 博 図書部長 剣道 1970/04/01 PTA実行委員
田村 達之 3E 保健部 バスケットボール 1971/04/01
町田 義春 1年係 水泳 1973/04/01
社会 地理 宮田 時雄 3A 学年主任 軟式テニス 1947/06/15 PTA実行委員
安盛 義高 1B 生徒部 バスケットボール 1972/04/01
世界史 三橋 力 1年係 進路部 野球 1949/05/15
佐藤 周蔵 2年係 教務部 軟式テニス 1970/04/01
日本史 沢井 景之助 2年係 進路部 心理研究 1960/04/01
宇野 順之助 3B 生徒部 陸上競技 1970/04/01
政経 塩野入 啓晃 進路部長 演劇 1948/03/31 PTA実行委員
倫社 岡野 尚起 生徒部長 1969/04/01 PTA実行委員
数学 奥野 一雄 2年係 図書部 天文 1946/03/31
不島 静夫 2G 保健部 鉄道研究 1947/09/30
石井 孝雄 1H 教務部 写真 1960/04/01
斎藤 昉 1年係 図書部 数学研究会 1960/04/01
若林 明弘 3F 教務部 柔道 1963/04/01
児玉 一成 1A 学年主任 フォークソング同好会 1967/04/01 PTA実行委員
石黒 富美男 教務部長 1967/10/01 PTA実行委員
竹内 淳博 3C 生徒部 ラグビー 1971/04/01
理科 物理 鬼崎 菖三 2B ラジオ 1967/04/01 PTA書記長
芝 茂雄 2A 学年主任 物理 1969/04/01 PTA実行委員
化学 園山 忠夫 3年係 図書部 化学 1946/09/15 財団理事
萩原 祥宏 2年係 保健部 美術 1968/09/01
生物 鈴木 亨 2年係 進路部 サッカー 1951/04/01
水越 虔二 1G 進路部 生物 1963/05/01
地学 多胡 忠治 1C 生徒部 ラグビー 1965/04/01
英語 深掘 修 3年係 保健部 硬式テニス 1945/10/31
直井 鋠治 3D 教務部 硬式テニス 1967/04/01
川端 一男 1F 教務部 自動車 1969/04/01
細田 健次 1年係 庶務部 社会科学研究 1970/04/01
大阪 芙佐枝 2D 生徒部 ESS 1971/04/01
小山 晃三 2E 学校祭委員長 バドミントン 1972/04/01 PTA実行委員
相沢 健夫 1D 保健部 バドミントン 1973/04/01
藍沢 満 3年係 庶務部 野球 1973/04/01
保健・体育 小林 年子 3年係 教務部 バレーボール 1952/04/01
阿部 修二 保健部長 器械体操 1958/01/01 PTA実行委員
粂 太郎 3G 生徒部 サッカー 1964/09/01
中村 洋一 2F 生徒部 バレーボール 1967/04/01
岡野 進 1年係 生徒部 陸上競技 1970/04/01
音楽 土屋 公平 3年係 ブラスバンド 1968/04/01 PTA書記
司書教諭 図書 矢口 洋子 図書部 弦楽 1955/04/01
養護教諭 養護 斎藤 千代 保健部 ホームサークル 1964/03/01
実習助手 理科 加藤 憲市郎 1974/04/01

講師・校医

教科 氏名
非常勤講師 国語 斎藤 由江
数学 片淵 康真
理科 物理 村上 慶一
前田 幸正
化学 佐久間 常昌
松井 順三
梶山 健一
英語 藺牟田 憲一
体育 長沢 光雄
栗原 崇志
芸術 美術 武田 良三
書道 黒沢 岩資
家庭 金子 純子
校医 内科 武田 久孝
耳鼻科 仙頭 哲夫
眼科 早川 和夫
歯科 鎌田 栄一
薬剤師 三村 薫

事務職員

職 名 氏 名 就 任
事務長 斎藤 斉 1970/04/01
事務主事(主査) 渡辺 市治 1972/04/01
湯田 省三 1972/04/01
事務主事 見村 すみ子 1964/04/01
小泉 洋子 1971/05/16
森井 節子 1967/04/01
事務主事補 藤井 常光 1972/05/16
司書補 金城 明子 1971/08/01
用務員 平野 福三郎 1947/05/06
山本 瑛子 1964/04/01
樋口 和三郎 1967/04/01
浅野 修一 1968/01/01
警備員 浜村 辰次郎 1954/08/01
神原 孝史 1966/02/01
PTA(教務) 勝野 恭子 1974/04/27
PTA(清掃) 槌屋 フミヨ 1963/04/01

生徒在籍数  (1974年4月現在)

A B C D E F G H
1年 33 32 32 32 32 32 33 33 259
13 14 13 14 14 14 13 13 108
46 46 45 46 46 46 46 46 367
2年 33 33 33 33 33 33 33 33 264
12 13 13 13 13 13 13 12 102
45 46 46 46 46 46 46 45 366
3年 34 34 34 34 34 34 34 34 272
13 13 13 13 12 12 12 13 101
47 47 47 47 46 46 46 47 373
総 計 795 311 1,106


寒菊祭(学芸会、展示会、招待試合、後夜祭)

9月21日(土)、22日(日) 開催




「1974年寒菊祭」は以下のリンクからご覧になれます。
1974年寒菊祭.pdfファイルへのリンク



文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
文化祭(寒菊祭)一覧表



運動会

10月6日(日) 開催
白組優勝




菊香 第7号

「生徒会誌 菊香」第7号
「生徒会誌 菊香」第7号は以下のリンクからご覧になれます。
「生徒会誌 菊香 第7号」PDFファイルへのリンク


生徒会誌「菊香」の一覧はこちら → 生徒会誌「菊香」一覧表




卒業アルバム





関連項目

 * ← 1973年度 (昭和48年度)    * → 1975年度 (昭和50年度)


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脚注




2025年3月13日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20250313092329