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==世相== | |||
:'''1971年''' | |||
:06.30 ビートルズ武道館で公演<br> | |||
:08.18 中国文化大革命勝利大集会<br> | |||
:'''1972年''' | |||
:02.11 建国の日が祝日となる<br> | |||
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:'''流行語'''-黒い霧・びっくりしたなあもう<br> | |||
:'''流行歌'''-君といつまでも・骨まで愛して・星のフラメンコ<br> | |||
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==??生徒総会で制帽廃止を決議 大矢和光== | |||
小山台高校を卒業して一六年の歳月か過ぎ去りました。しかし、小山台で経験し、教えられたことが今もなお私の中で生き私を動かしています。小山台時代の友人達は普段音信不通ながら、ひとたび会えば昨日までともに暮したような付き会い方をします。これら良き仲間を与え、私を作り上げてくれた小山台、その一端が生徒会活動にも見られます。<br> | |||
私は当時学校祭常任委員長という形で生徒会に関与しておりました。九月、一○月に行われる文化祭・運動会を統括管理運営していく立場でしたが、また生徒会中央執行委員の一人でもあったわけです。<br> | |||
当時生徒会での最大の懸案は、制帽廃止と学校祭呼称変更問題でした。いずれの問題も以前より継続審議され、生徒間でも賛否両論、先生方も困っておられたのではないかと思います。結果は、制帽は廃止となり、学校祭名は愛称として「寒菊祭」を用いることとなったわけですが、それを審議した生徒総会は今もって思い出に残っております。と言いますのが、小山台卒業以後今日に至るまで、あれほどきちんとした議事の進行を経験したことがないからです。現在の生徒総会がどのように行われているかは知りませんが、当時私達は、議事法の勉強から入りました。そして、いかにスムーズに議事をすすめ、少数意見も十分に聞くことが出来るかを基本的な考え方にしていたわけです。議論は百出しました。しかし、後に出現した学生運動家のようなアジ演説はなく、自説を述べ、それをいかに他人に納得してもらうかの発言であったように思います。制帽廃止自体は、生徒の規制への反発と解釈出来ます。しかしそれを行動に先走らず手統きを踏んだステップにより達成したという点、その数年後には学生連動と称して暴力が検行した世の中の風潮と比べると、これが我々の世代なのか、それとも小山台の気風なのか考えてしまいます。<br> | |||
今、小山台の友人と会って、感じ、そしてお互い納得すること、それは小山台の卒業生が一つの価値観にこだわらず、広く自分の思った世界で飛びまわっていることです。お互いを大切にし、自分を見失わない本来の自由人としての小山台生の輪が、今後も広がっていくことを確信しております。<br> | |||
(20回・昭43年卒 聖マリアンナ医科大学第二外科助手)(「第60周年記念誌」P177より抜粋) | |||
==??“人生の原型”の日々 五十嵐裕治(旧姓 関)== | |||
少年から青年へ。未来への淡い希望を内に蔵しつつ、目前の受験勉強に半ば機械的に取り組んでいた、あのくすんだ日々。世は高度経済成長の坂を昇り始め、物の豊かさを追い求めて、日本人の多くが何か得体の知れないものに向かって突進し始めていたころだった。東大はじめ一流大学への捷径とされていた当時の小山台にあって、私たちは繁栄への道をひた走る親たちの期待に、忠実に応えようとしていただろう、と今あらためて思う。 | |||
私自身、自分について考えるようになるまでは、全てが点数で表示されるそのときの教育のあり方に、無機質な快感を抱いていた。しかし、その快感が、高校三年の春、突如として不快感に変わった。揺れ動く少年の心にそのとき映じていたのは何だったろうか。定まらない形を求めて、私は何かを表現しようとしていた。しかし、いくら表現しても核心がつかめない。つかめぬまま日々は過ぎた。 | |||
私のいらだちは、おそらく同世代の者たちのそれでもあったろう。卒業のころから吹き荒れ出した全国学園闘争のすさまじい嵐は、ぜいじゃくな私や、私を取り巻く多くの友人たちを、否応なく呑み込んでいった。 | |||
今、私は思う。その後の道がどうあれ、小山台の三年間は、“いま”を胚胎する濃密な日々であった、と。あの千日余の期間に、現在を予兆させるすべてが刻まれている。いわば、“人生の原型”を形づくった日々――。 | |||
その底に、現世を超えて生きようとする永遠の美意識が流れているとするならば、それは二年間担任であった安藤千鶴子先生の人格的影響によるところが大きい。教師はおそらく、授業の質によってでなく、その人間性において教え子を感化する。 | |||
さて、小山台の三年間で象られた“人生の原型”が、今後どのような変奏曲をかなでるにしても、私の場合、友人たちと同じように曲は始まったばかりである。<br> | |||
(高19回・昭42年卒 天理教教会本部・「天理時報」記者)(「第60周年記念誌」P176より抜粋) | |||
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2025年3月12日 (水) 08:27時点における版
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1971(昭和46)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月 2日 始業式 4月 3日 健康診断 9月1日 始業式 1月X日 始業式 |
文化祭の日の〝子供の国〟 加藤真由美(旧姓 常安) 「あ、オヤマダイですか。よく知っています。」卒業以来、私の履歴書を見ながら、あるいは私の話に相槌を打ちながら、何度か、これに似た言葉を聞き、その都度、「コヤマダイなんです。」と訂正してきました。すると本当に御存知の方は、「通動会が有名でしたね。」などときて、つい、私も小山台には運動会しかないかのような話をバラまいてきました。でも、文化祭だってあったはず…。何故、私が文化祭に拘っているか、その原因は先日届いた一通の手紙でした。それは、
「文化祭について思い出し、八○○字以内にまとめよ』といった内容と、締切日まで指定された原稿依頼だったのです。「しまった!文化祭って何だっけ」頭は突くか、縦か横に振るかしか使わない生活から一変して、流行作家や試験場で悪戦苦闘の学生の気分まで味わいながら、必死で文化祭なるものを思い出したところ、自分でも意外な事実が記憶の底から魁ったのです。それは『子供の国』でした。実は文化祭を抜け出し、友達と二人、子供の国まで遠足に行っていたのです。発作的行動のため、二人の持参金を足してもわずか。往復の交通費とささやかな昼食、それにアイスクリームに化けたらあとは一文無しでした。そのせいもあってか、あの日の青空と芝生の色か変に生々しく思い出され、小学生のようにはしゃいでいた気持も懐かしいものでした。考えてみれば三年の秋。あれは息抜きでした。受験や就職を控え、各人が緊張の毎日を過ごしそれぞれどこかでホッと息をつく。文化祭や連動会そのものが息抜きだったのかもしれません。殺伐が当然とも言えたあの時期を、案外、伸び伸びやってこれたものだと、今は感謝しています。二人の逃亡を黙って見逃してくださった先生、ありがとうございました。
(高25回・昭和48年卒 主婦 二児の母) |
世 相 | |
6月 光化学スモッグの発生で各地に被害 |
できごと
- 04.08 午前 始業式
- 04.08 午後 入学式 高26回生(男子281、女子97、計378名)
- 04.11 進学懇談会(3年)
- 04.19 健康診断(~21)
- 05.04 開校記念日
- 05.12 防火訓練
- 05.14 遠足
- 05.24 中間考査(~26)
- 05.29 PTA総会
- 05.31 校内球技大会(~06.05)
- 06.09 合唱コンクール予選(~11)
- 06.16 合唱コンクール
- 06.17 ア・テスト(3年)(~18)
- 06.25 定例前期生徒総会(6月28日,29日に継続)
- 07.08 期末考査(~12)
- 07.20 終業式
- 07.27 クラブ合同合宿(~08.01)
- 08.02 体育館改修工事(雨漏りしなくなる)(~09.07)
- 09.01 始業式
- 09.02 ア・テスト(1・2年)(~03)
- 09.02 ア・テスト(3年)(~04)
- 09.08 水泳大会(~10)
- 09.18 第26回寒菊祭(~19)
- 10.03 運動会:優勝(白組)
- 10.21 中間考査(~23)
- 10.26 講演会(3年)講師:笠松章氏
- 11.08 修学旅行(2年:京都・奈良方面) (~11)
- 11.10 遠足
- 11.18 ア・テスト(3年)(~20)
- 11.24 防火訓練、50周年記念事業準備委員会発足
- 11.25 生徒総会
- 11.30 校庭改修工事(~03.08)
- 12.13 期末考査(~16)
- 12.25 終業式
- 01.03 スキー教室(12月末雪不足で延期)(~07)
- 01.08 始業式
- 01.10 ア・テスト(1・2・3年)(~11)
- 01.24 定例後期生徒総会(制服廃止案却下など)
- 01.29 ロードレース大会
- 02.08 卒業記念品として、時計台時計、ウォータークーラー取付
- 02.14 校内球技大会(~19)
- 02.22 入学選抜学力検査
- 03.06 期末考査(~09)
- 03.18 卒業式 高24回生(男子279、女子99、計378名)
- 03.22 終業式
世相
- 1971年
- 06.30 ビートルズ武道館で公演
- 08.18 中国文化大革命勝利大集会
- 1972年
- 02.11 建国の日が祝日となる
- 流行語-黒い霧・びっくりしたなあもう
- 流行歌-君といつまでも・骨まで愛して・星のフラメンコ
??生徒総会で制帽廃止を決議 大矢和光
小山台高校を卒業して一六年の歳月か過ぎ去りました。しかし、小山台で経験し、教えられたことが今もなお私の中で生き私を動かしています。小山台時代の友人達は普段音信不通ながら、ひとたび会えば昨日までともに暮したような付き会い方をします。これら良き仲間を与え、私を作り上げてくれた小山台、その一端が生徒会活動にも見られます。
私は当時学校祭常任委員長という形で生徒会に関与しておりました。九月、一○月に行われる文化祭・運動会を統括管理運営していく立場でしたが、また生徒会中央執行委員の一人でもあったわけです。
当時生徒会での最大の懸案は、制帽廃止と学校祭呼称変更問題でした。いずれの問題も以前より継続審議され、生徒間でも賛否両論、先生方も困っておられたのではないかと思います。結果は、制帽は廃止となり、学校祭名は愛称として「寒菊祭」を用いることとなったわけですが、それを審議した生徒総会は今もって思い出に残っております。と言いますのが、小山台卒業以後今日に至るまで、あれほどきちんとした議事の進行を経験したことがないからです。現在の生徒総会がどのように行われているかは知りませんが、当時私達は、議事法の勉強から入りました。そして、いかにスムーズに議事をすすめ、少数意見も十分に聞くことが出来るかを基本的な考え方にしていたわけです。議論は百出しました。しかし、後に出現した学生運動家のようなアジ演説はなく、自説を述べ、それをいかに他人に納得してもらうかの発言であったように思います。制帽廃止自体は、生徒の規制への反発と解釈出来ます。しかしそれを行動に先走らず手統きを踏んだステップにより達成したという点、その数年後には学生連動と称して暴力が検行した世の中の風潮と比べると、これが我々の世代なのか、それとも小山台の気風なのか考えてしまいます。
今、小山台の友人と会って、感じ、そしてお互い納得すること、それは小山台の卒業生が一つの価値観にこだわらず、広く自分の思った世界で飛びまわっていることです。お互いを大切にし、自分を見失わない本来の自由人としての小山台生の輪が、今後も広がっていくことを確信しております。
(20回・昭43年卒 聖マリアンナ医科大学第二外科助手)(「第60周年記念誌」P177より抜粋)
??“人生の原型”の日々 五十嵐裕治(旧姓 関)
少年から青年へ。未来への淡い希望を内に蔵しつつ、目前の受験勉強に半ば機械的に取り組んでいた、あのくすんだ日々。世は高度経済成長の坂を昇り始め、物の豊かさを追い求めて、日本人の多くが何か得体の知れないものに向かって突進し始めていたころだった。東大はじめ一流大学への捷径とされていた当時の小山台にあって、私たちは繁栄への道をひた走る親たちの期待に、忠実に応えようとしていただろう、と今あらためて思う。
私自身、自分について考えるようになるまでは、全てが点数で表示されるそのときの教育のあり方に、無機質な快感を抱いていた。しかし、その快感が、高校三年の春、突如として不快感に変わった。揺れ動く少年の心にそのとき映じていたのは何だったろうか。定まらない形を求めて、私は何かを表現しようとしていた。しかし、いくら表現しても核心がつかめない。つかめぬまま日々は過ぎた。
私のいらだちは、おそらく同世代の者たちのそれでもあったろう。卒業のころから吹き荒れ出した全国学園闘争のすさまじい嵐は、ぜいじゃくな私や、私を取り巻く多くの友人たちを、否応なく呑み込んでいった。
今、私は思う。その後の道がどうあれ、小山台の三年間は、“いま”を胚胎する濃密な日々であった、と。あの千日余の期間に、現在を予兆させるすべてが刻まれている。いわば、“人生の原型”を形づくった日々――。
その底に、現世を超えて生きようとする永遠の美意識が流れているとするならば、それは二年間担任であった安藤千鶴子先生の人格的影響によるところが大きい。教師はおそらく、授業の質によってでなく、その人間性において教え子を感化する。
さて、小山台の三年間で象られた“人生の原型”が、今後どのような変奏曲をかなでるにしても、私の場合、友人たちと同じように曲は始まったばかりである。
(高19回・昭42年卒 天理教教会本部・「天理時報」記者)(「第60周年記念誌」P176より抜粋)
教職員
職名 | 教科目 | 氏 名 | 担任 | 校務分掌 | 班活顧問 | 就 任 | PTA・菊桜会 | 財団小山台 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
校長 | (国語) | 伊藤 太一郎 | 1967/04/01 | PTA顧問 | 財団理事長 | ||||
教頭 | 社会 | 宇野 一 | 1969/04/01 | PTA副会長 | 財団常任理事 | ||||
教諭 | 国語 | 落合 光禎 | 1H | 図書部 | 硬式テニス | 1945/09/30 | |||
安藤 千鶴子 | 1年係 | 保健部 | 華道 | 1960/04/01 | |||||
土屋 泰男 | 3年係 | 教務部 | 剣道 | 1965/04/01 | |||||
野沢 穣 | 2C | 教務部 | ワンゲル | 1965/04/01 | |||||
江藤 秀男 | 図書部長 | 卓球 | 1968/04/01 | PTA実行委員 | |||||
高村 元継 | 2H | バドミントン | 1969/04/01 | PTA書記長 | |||||
柳原 博 | 3F | 庶務部 | 文芸同好会 | 1970/04/01 | |||||
田村 達之 | 2年係 | 庶務部 | サッカー | 1971/04/01 | |||||
社会 | 地理 | 宮田 時雄 | 1年係 | 庶務部 | 軟式テニス | 1947/06/15 | |||
斎藤 績 | 2B | 進路部 | 美術 | 1962/04/01 | |||||
世界史 | 三橋 力 | 保健部長 | 野球 | 1949/05/15 | PTA実行委員 | ||||
佐藤 周蔵 | 2E | 保健部 | 軟式テニス | 1970/04/01 | |||||
日本史 | 沢井 景之助 | 教務部長 | 1960/04/01 | PTA実行委員 | |||||
宇野 順之助 | 3D | 生徒部 | 社会科学研究 | 1970/04/01 | |||||
政経 | 塩野入 啓晃 | 3A | 学年主任 | 演劇 | 1948/03/31 | PTA実行委員 | |||
倫社 | 岡野 尚起 | 1E | 学校祭委員長 | 心理研究 | 1969/04/01 | PTA実行委員 | |||
数学 | 奥野 一雄 | 1年係 | 図書部 | 天文 | 1946/03/31 | ||||
不島 静夫 | 2年係 | 保健部 | 鉄道研究 | 1947/09/30 | |||||
石井 孝雄 | 3B | 教務部 | 写真 | 1960/04/01 | |||||
斎藤 昉 | 1D | 図書部 | ワンゲル | 1960/04/01 | |||||
若林 明弘 | 3E | 生徒部 | ラグビー | 1963/04/01 | |||||
児玉 一成 | 2A | 学年主任 | バスケットボール | 1967/04/01 | PTA実行委員 | ||||
石黒 富美男 | 生徒部長 | 1967/10/01 | PTA実行委員 | ||||||
竹内 淳博 | 1年係 | 教務部 | ラグビー | 1971/04/01 | |||||
理科 | 物理 | 鬼崎 菖三 | 2年係 | 教務部 | ラジオ | 1967/04/01 | |||
芝 茂雄 | 進路部長 | 物理 | 1969/04/01 | PTA実行委員 | |||||
化学 | 園山 忠夫 | 3年係 | 図書部 | 化学 | 1946/09/15 | 財団理事 | |||
萩原 祥宏 | 庶務部長 | 陸上競技 | 1968/09/01 | PTA実行委員 | |||||
生物 | 鈴木 亨 | 1A | 学年主任 | 自動車 | 1951/04/01 | PTA実行委員 | |||
水越 虔二 | 3年係 | 進路部 | 生物 | 1963/05/01 | |||||
地学 | 多胡 忠治 | 1G | 生徒部 | 合唱 | 1965/04/01 | ||||
英語 | 深掘 修 | 3G | 保健部 | 硬式テニス | 1945/10/31 | ||||
中山 重男 | 柔道 | 1959/04/01 | |||||||
直井 鋠治 | 3H | 進路部 | 野球 | 1967/04/01 | |||||
稲田 宏 | 2D | 進路部 | 新聞 | 1968/04/01 | |||||
川端 一男 | 1F | 教務部 | バスケットボール | 1969/04/01 | |||||
細田 健次 | 1B | 進路部 | ESS | 1970/04/01 | |||||
出来 成訓 | 2G | 生徒部 | 水泳 | 1970/09/01 | |||||
大阪 芙佐枝 | 2年係 | 図書部 | バドミントン | 1971/04/01 | |||||
保健・体育 | 小林 年子 | 3C | 生徒部 | バレーボール、フォークソング同好会 | 1952/04/01 | ||||
阿部 修二 | 1C | 保健部 | 器械体操 | 1958/01/01 | |||||
粂 太郎 | 2F | 生徒部 | サッカー | 1964/09/01 | |||||
中村 洋一 | 3年係 | 生徒部 | バレーボール | 1967/04/01 | |||||
岡野 進 | 2年係 | 庶務部 | 陸上競技 | 1970/04/01 | |||||
音楽 | 土屋 公平 | ブラスバンド | 1968/04/01 | PTA書記 | |||||
司書教諭 | 図書 | 矢口 洋子 | 図書部 | 弦楽 | 1955/04/01 | ||||
養護教諭 | 養護 | 斎藤 千代 | 保健部 | 1964/03/01 |
講師・校医
教科 | 氏名 | ||
---|---|---|---|
非常勤講師 | 理科 | 物理 | 立花 靖弘 |
伊藤 甕雄 | |||
化学 | 松井 順三 | ||
林 良重 | |||
英語 | 佐藤 治夫 | ||
芸術 | 美術 | 武田 良三 | |
書道 | 黒沢 岩資 | ||
家庭 | 金子 純子 | ||
校医 | 内科 | 武田 久孝 | |
耳鼻科 | 仙頭 哲夫 | ||
眼科 | 早川 和夫 | ||
歯科 | 鎌田 栄一 | ||
薬剤師 | 三村 薫 |
事務職員
職 名 | 氏 名 | 就 任 |
---|---|---|
事務長 | 斎藤 斉 | 1970/04/01 |
事務主事 | 諸 孝 | 1961/05/01 |
真保 孝 | 1962/07/01 | |
見村 スミ子 | 1964/04/01 | |
事務主事補 | 森井 節子 | 1967/04/01 |
小泉 洋子 | 1971/05/16 | |
山本 瑛子 | 1964/04/01 | |
業務員(理科) | 兼平 ケイ子 | 1970/04/16 |
用務員 | 平野 福三郎 | 1947/05/06 |
樋口 和三郎 | 1967/04/01 | |
浅野 修一 | 1968/01/01 | |
警備員 | 浜村 辰次郎 | 1954/08/01 |
神原 孝史 | 1966/02/01 | |
PTA(事務) | 金井 延 | 1970/05/01 |
PTA(清掃) | 槌屋 フミヨ | 1963/04/01 |
生徒在籍数 (1971年4月現在)
組 | A | B | C | D | E | F | G | H | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1年 | 男 | 35 | 35 | 35 | 36 | 35 | 36 | 35 | 34 | 281 |
女 | 13 | 12 | 13 | 11 | 12 | 12 | 12 | 12 | 97 | |
計 | 48 | 47 | 48 | 47 | 47 | 48 | 47 | 46 | 378 | |
2年 | 男 | 37 | 35 | 35 | 35 | 35 | 37 | 36 | 36 | 286 |
女 | 12 | 13 | 13 | 13 | 13 | 12 | 13 | 12 | 101 | |
計 | 49 | 48 | 48 | 48 | 48 | 49 | 49 | 48 | 387 | |
3年 | 男 | 36 | 35 | 36 | 35 | 34 | 34 | 35 | 35 | 280 |
女 | 12 | 13 | 12 | 13 | 13 | 13 | 13 | 11 | 100 | |
計 | 48 | 48 | 48 | 48 | 47 | 47 | 48 | 46 | 380 | |
総 計 | 男 | 847 | 女 | 298 | 計 | 1,145 |
寒菊祭(学芸会、展示会、招待試合、後夜祭)
- 9月18日(土)、19日(日) 開催
- 「1971年寒菊祭」は以下のリンクからご覧になれます。
- 1971年寒菊祭.pdfファイルへのリンク
- 文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
- 文化祭(寒菊祭)一覧表
運動会
- 10月3日(日) 開催
- 白組優勝
菊香 休刊
- 「生徒会誌 菊香」はこの年度と翌1972(昭和47)年度は発行されず。
- 1973(昭和48)年度より復刊された。
- 詳細は「菊香第6号」を参照ください。
- 生徒会誌「菊香」の一覧はこちら → 生徒会誌「菊香」一覧表
卒業アルバム
小山台新聞
- 1971(昭和46)年度発行
- 「小山台新聞1971(昭和46)年7月20日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1971(昭和46)年7月20日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1971(昭和46)年9月18日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1971(昭和46)年9月18日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1971(昭和46)年11月25日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1971(昭和46)年11月25日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1972(昭和47)年2月21日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1972(昭和47)年2月21日発行」へのリンク
関連項目
* ← 1970年度 (昭和45年度) * → 1972年度 (昭和47年度)
脚注
・
2025年3月12日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20250312082753