「1943年度 (昭和18年度)」の版間の差分

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==1943(昭和18)年度==
<div style="margin:-6px 0 -8px 1em; max-width:1600px">
{| class="wikitable" style="width: 85%;"
|+
|-
| colspan="2" |
<gallery widths=360px  heights=250px >
ファイル:八髙會 002 教職員写真.jpg|<div style="text-align:center; >恩師の面影 1944年3月時点</div>
ファイル:報國団雑誌_第20号_001_表紙.jpg|<div style="text-align:center; >報国団雑誌20号 表紙</div>
ファイル:報國団雑誌_第20号_007_中島団長_創立満廿周年に当りて01.jpg|<div style="text-align:center; >報国団雑誌20号 創立満廿周年に当りて</div>
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|-
|}
</div>
==できごと==
==できごと==
:4月 2日 入学式[[中21回 | 中21回生]](男子1XX名)
:'''1943年'''
:4月 6日 岡田藤十郎初代校長逝去
:04.01 中学校令改正により、修業年限四年となる 同令施行により、弘道中学は東京府立第八中学校夜間課程(通称二部)となる
:5月 5日 創立20周年記念式典挙行
:04.02 入学式[[中21回 | 中21回生]]
:6月 日 60粁徹宵行軍 (府中大国魂神社)
:04.06 岡田藤十郎前校長逝去
:7月 1日 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
:05.05 創立二〇周年記念式典挙行
:10月 2日 学芸会(午前中 1・2・3年、午後4、5年合流)
:07.01 都政実施により校名を東京都立第八中学校と改称
:10月21日 学徒出陣壮行会 (神宮外苑)
:10.02 学芸会
:10月28日 戦没卒業生 合同慰霊祭
:10.21 五年千葉県下連合演習に勇躍出発
:10月30日 教練査問 (講評「優良」)
:10.23 戦争に散華した卒業生・生徒父兄の合同慰霊祭講堂にて挙行、三年以上参列
:11月14日 鍛錬運動大会
:'''1944年'''
:12月24日 徴兵年齢、19歳に引き下げ
:02.11 報国団雑誌20号発行
:2月11日 [[#「報國団雑誌 第20号」|「報国団雑誌 第20号」]]発行
:03.02 卒業式([[中17回]]生:198名)
:3月28日 卒業式([[中17回]]生:198名)
<br>
</br></br></br></br>
==世相==
:'''1943年'''
:09.08 イタリア降伏
:10.01 学徒出陣壮行会、神宮外苑競技場で雨中の挙行
:12.24 徴兵年令を一年引下げ一九歳とする
:'''1944年'''
:03. 中学生の勤労動員大綱決定<br>
:'''流行語'''-撃ちてし止まん・転進
:'''流行歌'''-予科練のうた・湯島の白梅
<br>
==“遠からず死ぬ”と思っていたころ==
既に戦争中だったが、八中には一種自由の気風があった。一個の人間として尊重されている感じがあった。肩からかけた重いズックのカバン。教練服のバッグ。イガグリ頭。誇り高く目深にかぶった学帽。鉄道模型に凝り、ポータブル・ラジオの製作に熱中し、図書室に通いつめ、それでも足りずに古本屋を漁った。漱石から大陸移動説まで、何にでも首を突込んだ。<br>
多摩川べりを気の合った友と語りながらとめどもなく歩いた。大枚2 円也を投じて、二子玉川の東京一周のセスナ機に乗った。人生は真新しい本のようで、一頁一頁が新鮮な驚きに満ちていた。<br>
そして、3 年になる頃から少しずつ周りが見えてくる。驚きに苦さが加わってくる。一つ一つの事実を自分で問い直して行く時期に入ったのだ。丁度その頃、日本は太平洋戦争に突入した。軍事教練は厳しさを増した。体力章検定が始まった。手榴弾投擲が駄目でなかなか初級が貰えなかった。4 年の夏、千葉県の保田で海洋訓練に参加した。海兵団一時入団という形で結構しごかれた。最後の夜、訓練の感想を問われて、勇敢なる某君立ちて曰く、肉体的にいくら錬成されても、精神は変えられない。連帯責任で皆殴られた。<br>
授業は相変わらずキチンと続いていた。英語の原書をバリバリ読んでる奴がいた。ラテン語を独習してる奴もいた。文科系進学者には徴兵延期の特典がなかった。キッパリ文科系を選んだ。何がキッパリか判らなかったが、遠からず死ぬのだと思っていた。だから、やたらと本を読んだ。今でもやたらと本を読む。<br>
(熊倉一雄 中17 回「創立60 周年記念誌」P131)<br>
==皆川先生のことなど==
昭和一六年一二月八日府立八中の校庭に早暁の臨時ニュースに興奮した生徒たちが早めに登校し、ざわめいていた。曇っていた、と思う。砂場のあたりだったか、不断目立たない矢野君の話に、一瞬、まわりがしんとした。<br>
矢野君は、人の良さそうな細い眼に、当時の近眼の中学生なら誰でも同じの丸い眼鏡を掛けていた。「おやじは今日から英会話を始めるっていうんだ。ハワイをやったってアメリカは立ち直る。この戦争は負けるって…」<br>
一瞬ののち、僕らは「へえっ」「ほんとう」というだけで、誰も反発しなかった。皆それを話として聞いていた。この都会の中学には、仲間同志で自由に語り、聞く雰囲気がまだあったようだし、第一、負ける、という想像力は持てなかったから、いきり立ったりはしなかった。<br>
その日の授業は、各先生が、感想を述べることで始まった。それで授業がつぶれた。<br>
国語の時間、すらりとした白皙の皆川先生は、君たちには、これから希望を充分伸ばせる時代が来るだろう、といわれ「うらやましいよ」と一言添えられた。私には少し意外だった。皆川さんには「うらやましい」などという言葉はふさわしくなかった。使ってもらいたくなかったのだ。<br>
戦後の昭和二一年、皆川先生戦病死のことを知られた加藤楸邨先生の句がある。<br>
征きし日のかの夕焼と風呂敷と  楸邨<br>
皆川先生の応召は、昭和一八年末。二○年八月一五日終戦。その一○日後の二五日、ハルマヘラ島の第三二師団第一野戦病院で戦病死された。栄養失調による衰弱の果てであった。無念であったろう。無念である。<br>
(川崎展宏 中17回「創立60周年記念誌」P130)


==恩師の面影==
==恩師の面影==
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==学芸会==
==学芸会==
:10月 2日(土)午前8時半開催
:10月 2日(土)午前8時半開催
:午前中 1・2・3年、午後 4・5年合流
:午前中 一・二・三年、午後 四・五年合流
<br>
<br>
*開会挨拶
*開会挨拶
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:学芸会詳細については[[#「報國団雑誌 第20号」|「報国団雑誌 第20号」]]P94に掲載
*閉会挨拶
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*閉会挨拶
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== 「報國団雑誌 第20号」 ==
== 「報國団雑誌 第20号」 ==
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=== [[File:R2l.gif|link=#「報國団雑誌 第20号」|以下の「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンクをクリックすると「報國団雑誌 第20号」全文表示]]「報國団雑誌 第20号」全文===
=== [[File:R2l.gif|link=#「報國団雑誌 第20号」|以下の「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンクをクリックすると「報國団雑誌 第20号」全文表示]]「報國団雑誌 第20号」全文===
:以下のリンクから「報國団雑誌 第20号」全文をご覧いただけます。
:以下のリンクから「報國団雑誌 第20号」全文をご覧いただけます。
: [https://www.dropbox.com/s/v7df3z13pocku6s/%E5%A0%B1%E5%9C%8B%E5%9B%A3%E9%9B%91%E8%AA%8C_%E7%AC%AC20%E5%8F%B7.pdf?dl=0 「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンク]
: [https://www.dropbox.com/scl/fi/dfxy4uazq4y5jwps2t5v7/_-20.pdf?rlkey=53vtk7om8fcrreb0vf2u7ir8g&st=rbe71p1u&dl=0 「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンク]
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2025年3月10日 (月) 11:51時点における最新版

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1943(昭和18)年度

できごと

1943年
04.01 中学校令改正により、修業年限四年となる 同令施行により、弘道中学は東京府立第八中学校夜間課程(通称二部)となる
04.02 入学式 中21回生
04.06 岡田藤十郎前校長逝去
05.05 創立二〇周年記念式典挙行
07.01 都政実施により校名を東京都立第八中学校と改称
10.02 学芸会
10.21 五年千葉県下連合演習に勇躍出発
10.23 戦争に散華した卒業生・生徒父兄の合同慰霊祭講堂にて挙行、三年以上参列
1944年
02.11 報国団雑誌20号発行
03.02 卒業式(中17回生:198名)


世相

1943年
09.08 イタリア降伏
10.01 学徒出陣壮行会、神宮外苑競技場で雨中の挙行
12.24 徴兵年令を一年引下げ一九歳とする
1944年
03. 中学生の勤労動員大綱決定
流行語-撃ちてし止まん・転進
流行歌-予科練のうた・湯島の白梅


“遠からず死ぬ”と思っていたころ

既に戦争中だったが、八中には一種自由の気風があった。一個の人間として尊重されている感じがあった。肩からかけた重いズックのカバン。教練服のバッグ。イガグリ頭。誇り高く目深にかぶった学帽。鉄道模型に凝り、ポータブル・ラジオの製作に熱中し、図書室に通いつめ、それでも足りずに古本屋を漁った。漱石から大陸移動説まで、何にでも首を突込んだ。
多摩川べりを気の合った友と語りながらとめどもなく歩いた。大枚2 円也を投じて、二子玉川の東京一周のセスナ機に乗った。人生は真新しい本のようで、一頁一頁が新鮮な驚きに満ちていた。
そして、3 年になる頃から少しずつ周りが見えてくる。驚きに苦さが加わってくる。一つ一つの事実を自分で問い直して行く時期に入ったのだ。丁度その頃、日本は太平洋戦争に突入した。軍事教練は厳しさを増した。体力章検定が始まった。手榴弾投擲が駄目でなかなか初級が貰えなかった。4 年の夏、千葉県の保田で海洋訓練に参加した。海兵団一時入団という形で結構しごかれた。最後の夜、訓練の感想を問われて、勇敢なる某君立ちて曰く、肉体的にいくら錬成されても、精神は変えられない。連帯責任で皆殴られた。
授業は相変わらずキチンと続いていた。英語の原書をバリバリ読んでる奴がいた。ラテン語を独習してる奴もいた。文科系進学者には徴兵延期の特典がなかった。キッパリ文科系を選んだ。何がキッパリか判らなかったが、遠からず死ぬのだと思っていた。だから、やたらと本を読んだ。今でもやたらと本を読む。
(熊倉一雄 中17 回「創立60 周年記念誌」P131)

皆川先生のことなど

昭和一六年一二月八日府立八中の校庭に早暁の臨時ニュースに興奮した生徒たちが早めに登校し、ざわめいていた。曇っていた、と思う。砂場のあたりだったか、不断目立たない矢野君の話に、一瞬、まわりがしんとした。
矢野君は、人の良さそうな細い眼に、当時の近眼の中学生なら誰でも同じの丸い眼鏡を掛けていた。「おやじは今日から英会話を始めるっていうんだ。ハワイをやったってアメリカは立ち直る。この戦争は負けるって…」
一瞬ののち、僕らは「へえっ」「ほんとう」というだけで、誰も反発しなかった。皆それを話として聞いていた。この都会の中学には、仲間同志で自由に語り、聞く雰囲気がまだあったようだし、第一、負ける、という想像力は持てなかったから、いきり立ったりはしなかった。
その日の授業は、各先生が、感想を述べることで始まった。それで授業がつぶれた。
国語の時間、すらりとした白皙の皆川先生は、君たちには、これから希望を充分伸ばせる時代が来るだろう、といわれ「うらやましいよ」と一言添えられた。私には少し意外だった。皆川さんには「うらやましい」などという言葉はふさわしくなかった。使ってもらいたくなかったのだ。
戦後の昭和二一年、皆川先生戦病死のことを知られた加藤楸邨先生の句がある。
征きし日のかの夕焼と風呂敷と 楸邨
皆川先生の応召は、昭和一八年末。二○年八月一五日終戦。その一○日後の二五日、ハルマヘラ島の第三二師団第一野戦病院で戦病死された。栄養失調による衰弱の果てであった。無念であったろう。無念である。
(川崎展宏 中17回「創立60周年記念誌」P130)

恩師の面影

1944(昭和19)年 3月時点 「八高会 卒業50周年記念誌」より」
八高会 卒業50周年記念誌より



学芸会

10月 2日(土)午前8時半開催
午前中 一・二・三年、午後 四・五年合流


  • 開会挨拶


  • 閉会挨拶


「報國団雑誌 第20号」

「報國団雑誌 第20号」は、1944(昭和19)年2月11日発行されました。
中17回 三宮 洋 様より寄贈いただきました。


「皆川一郎」先生が出征され「皆川先生出征」が掲載されています。

「皆川先生出征」を表示


昨年度の「報国団雑誌 第19号」で好評を博した「先生方」のぶら下がり取材「秋晴れの八角塔」続編が掲載されています(下のボタンを押すと全文が表示されます)

ぶら下がり取材「秋晴れの八角塔」続編 を表示




以下の「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンクをクリックすると「報國団雑誌 第20号」全文表示「報國団雑誌 第20号」全文

以下のリンクから「報國団雑誌 第20号」全文をご覧いただけます。
 「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンク




卒業アルバム





関連項目

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脚注



2025年3月10日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250310115117