「1943年度 (昭和18年度)」の版間の差分
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==1943(昭和18)年度== | |||
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ファイル:八髙會 002 教職員写真.jpg|<div style="text-align:center; >恩師の面影 1944年3月時点</div> | |||
ファイル:報國団雑誌_第20号_001_表紙.jpg|<div style="text-align:center; >報国団雑誌20号 表紙</div> | |||
ファイル:報國団雑誌_第20号_007_中島団長_創立満廿周年に当りて01.jpg|<div style="text-align:center; >報国団雑誌20号 創立満廿周年に当りて</div> | |||
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==できごと== | ==できごと== | ||
: | :'''1943年''' | ||
: | :04.01 中学校令改正により、修業年限四年となる 同令施行により、弘道中学は東京府立第八中学校夜間課程(通称二部)となる | ||
: | :04.02 入学式[[中21回 | 中21回生]] | ||
: | :04.06 岡田藤十郎前校長逝去 | ||
: | :05.05 創立二〇周年記念式典挙行 | ||
: | :07.01 都政実施により校名を東京都立第八中学校と改称 | ||
: | :10.02 学芸会 | ||
: | :10.21 五年千葉県下連合演習に勇躍出発 | ||
: | :10.23 戦争に散華した卒業生・生徒父兄の合同慰霊祭講堂にて挙行、三年以上参列 | ||
: | :'''1944年''' | ||
:02.11 報国団雑誌20号発行 | |||
< | :03.02 卒業式([[中17回]]生:198名) | ||
<br> | |||
==世相== | |||
:'''1943年''' | |||
:09.08 イタリア降伏 | |||
:10.01 学徒出陣壮行会、神宮外苑競技場で雨中の挙行 | |||
:12.24 徴兵年令を一年引下げ一九歳とする | |||
:'''1944年''' | |||
:03. 中学生の勤労動員大綱決定<br> | |||
:'''流行語'''-撃ちてし止まん・転進 | |||
:'''流行歌'''-予科練のうた・湯島の白梅 | |||
<br> | |||
==“遠からず死ぬ”と思っていたころ== | |||
既に戦争中だったが、八中には一種自由の気風があった。一個の人間として尊重されている感じがあった。肩からかけた重いズックのカバン。教練服のバッグ。イガグリ頭。誇り高く目深にかぶった学帽。鉄道模型に凝り、ポータブル・ラジオの製作に熱中し、図書室に通いつめ、それでも足りずに古本屋を漁った。漱石から大陸移動説まで、何にでも首を突込んだ。<br> | |||
多摩川べりを気の合った友と語りながらとめどもなく歩いた。大枚2 円也を投じて、二子玉川の東京一周のセスナ機に乗った。人生は真新しい本のようで、一頁一頁が新鮮な驚きに満ちていた。<br> | |||
そして、3 年になる頃から少しずつ周りが見えてくる。驚きに苦さが加わってくる。一つ一つの事実を自分で問い直して行く時期に入ったのだ。丁度その頃、日本は太平洋戦争に突入した。軍事教練は厳しさを増した。体力章検定が始まった。手榴弾投擲が駄目でなかなか初級が貰えなかった。4 年の夏、千葉県の保田で海洋訓練に参加した。海兵団一時入団という形で結構しごかれた。最後の夜、訓練の感想を問われて、勇敢なる某君立ちて曰く、肉体的にいくら錬成されても、精神は変えられない。連帯責任で皆殴られた。<br> | |||
授業は相変わらずキチンと続いていた。英語の原書をバリバリ読んでる奴がいた。ラテン語を独習してる奴もいた。文科系進学者には徴兵延期の特典がなかった。キッパリ文科系を選んだ。何がキッパリか判らなかったが、遠からず死ぬのだと思っていた。だから、やたらと本を読んだ。今でもやたらと本を読む。<br> | |||
(熊倉一雄 中17 回「創立60 周年記念誌」P131)<br> | |||
==皆川先生のことなど== | |||
昭和一六年一二月八日府立八中の校庭に早暁の臨時ニュースに興奮した生徒たちが早めに登校し、ざわめいていた。曇っていた、と思う。砂場のあたりだったか、不断目立たない矢野君の話に、一瞬、まわりがしんとした。<br> | |||
矢野君は、人の良さそうな細い眼に、当時の近眼の中学生なら誰でも同じの丸い眼鏡を掛けていた。「おやじは今日から英会話を始めるっていうんだ。ハワイをやったってアメリカは立ち直る。この戦争は負けるって…」<br> | |||
一瞬ののち、僕らは「へえっ」「ほんとう」というだけで、誰も反発しなかった。皆それを話として聞いていた。この都会の中学には、仲間同志で自由に語り、聞く雰囲気がまだあったようだし、第一、負ける、という想像力は持てなかったから、いきり立ったりはしなかった。<br> | |||
その日の授業は、各先生が、感想を述べることで始まった。それで授業がつぶれた。<br> | |||
国語の時間、すらりとした白皙の皆川先生は、君たちには、これから希望を充分伸ばせる時代が来るだろう、といわれ「うらやましいよ」と一言添えられた。私には少し意外だった。皆川さんには「うらやましい」などという言葉はふさわしくなかった。使ってもらいたくなかったのだ。<br> | |||
戦後の昭和二一年、皆川先生戦病死のことを知られた加藤楸邨先生の句がある。<br> | |||
征きし日のかの夕焼と風呂敷と 楸邨<br> | |||
皆川先生の応召は、昭和一八年末。二○年八月一五日終戦。その一○日後の二五日、ハルマヘラ島の第三二師団第一野戦病院で戦病死された。栄養失調による衰弱の果てであった。無念であったろう。無念である。<br> | |||
(川崎展宏 中17回「創立60周年記念誌」P130) | |||
==恩師の面影== | ==恩師の面影== | ||
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==学芸会== | ==学芸会== | ||
:10月 2日(土)午前8時半開催 | :10月 2日(土)午前8時半開催 | ||
:午前中 | :午前中 一・二・三年、午後 四・五年合流 | ||
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*開会挨拶 | *開会挨拶 | ||
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*閉会挨拶 | |||
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== 「報國団雑誌 第20号」 == | == 「報國団雑誌 第20号」 == | ||
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: | :「皆川一郎」先生が出征され'''「皆川先生出征」'''が掲載されています。 | ||
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: | :昨年度の「報国団雑誌 第19号」で好評を博した「先生方」の'''ぶら下がり取材「秋晴れの八角塔」続編'''が掲載されています(下のボタンを押すと全文が表示されます) | ||
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2025年3月10日 (月) 11:51時点における最新版
(編集中) (編集完了)
1943(昭和18)年度
できごと
- 1943年
- 04.01 中学校令改正により、修業年限四年となる 同令施行により、弘道中学は東京府立第八中学校夜間課程(通称二部)となる
- 04.02 入学式 中21回生
- 04.06 岡田藤十郎前校長逝去
- 05.05 創立二〇周年記念式典挙行
- 07.01 都政実施により校名を東京都立第八中学校と改称
- 10.02 学芸会
- 10.21 五年千葉県下連合演習に勇躍出発
- 10.23 戦争に散華した卒業生・生徒父兄の合同慰霊祭講堂にて挙行、三年以上参列
- 1944年
- 02.11 報国団雑誌20号発行
- 03.02 卒業式(中17回生:198名)
世相
- 1943年
- 09.08 イタリア降伏
- 10.01 学徒出陣壮行会、神宮外苑競技場で雨中の挙行
- 12.24 徴兵年令を一年引下げ一九歳とする
- 1944年
- 03. 中学生の勤労動員大綱決定
- 流行語-撃ちてし止まん・転進
- 流行歌-予科練のうた・湯島の白梅
“遠からず死ぬ”と思っていたころ
既に戦争中だったが、八中には一種自由の気風があった。一個の人間として尊重されている感じがあった。肩からかけた重いズックのカバン。教練服のバッグ。イガグリ頭。誇り高く目深にかぶった学帽。鉄道模型に凝り、ポータブル・ラジオの製作に熱中し、図書室に通いつめ、それでも足りずに古本屋を漁った。漱石から大陸移動説まで、何にでも首を突込んだ。
多摩川べりを気の合った友と語りながらとめどもなく歩いた。大枚2 円也を投じて、二子玉川の東京一周のセスナ機に乗った。人生は真新しい本のようで、一頁一頁が新鮮な驚きに満ちていた。
そして、3 年になる頃から少しずつ周りが見えてくる。驚きに苦さが加わってくる。一つ一つの事実を自分で問い直して行く時期に入ったのだ。丁度その頃、日本は太平洋戦争に突入した。軍事教練は厳しさを増した。体力章検定が始まった。手榴弾投擲が駄目でなかなか初級が貰えなかった。4 年の夏、千葉県の保田で海洋訓練に参加した。海兵団一時入団という形で結構しごかれた。最後の夜、訓練の感想を問われて、勇敢なる某君立ちて曰く、肉体的にいくら錬成されても、精神は変えられない。連帯責任で皆殴られた。
授業は相変わらずキチンと続いていた。英語の原書をバリバリ読んでる奴がいた。ラテン語を独習してる奴もいた。文科系進学者には徴兵延期の特典がなかった。キッパリ文科系を選んだ。何がキッパリか判らなかったが、遠からず死ぬのだと思っていた。だから、やたらと本を読んだ。今でもやたらと本を読む。
(熊倉一雄 中17 回「創立60 周年記念誌」P131)
皆川先生のことなど
昭和一六年一二月八日府立八中の校庭に早暁の臨時ニュースに興奮した生徒たちが早めに登校し、ざわめいていた。曇っていた、と思う。砂場のあたりだったか、不断目立たない矢野君の話に、一瞬、まわりがしんとした。
矢野君は、人の良さそうな細い眼に、当時の近眼の中学生なら誰でも同じの丸い眼鏡を掛けていた。「おやじは今日から英会話を始めるっていうんだ。ハワイをやったってアメリカは立ち直る。この戦争は負けるって…」
一瞬ののち、僕らは「へえっ」「ほんとう」というだけで、誰も反発しなかった。皆それを話として聞いていた。この都会の中学には、仲間同志で自由に語り、聞く雰囲気がまだあったようだし、第一、負ける、という想像力は持てなかったから、いきり立ったりはしなかった。
その日の授業は、各先生が、感想を述べることで始まった。それで授業がつぶれた。
国語の時間、すらりとした白皙の皆川先生は、君たちには、これから希望を充分伸ばせる時代が来るだろう、といわれ「うらやましいよ」と一言添えられた。私には少し意外だった。皆川さんには「うらやましい」などという言葉はふさわしくなかった。使ってもらいたくなかったのだ。
戦後の昭和二一年、皆川先生戦病死のことを知られた加藤楸邨先生の句がある。
征きし日のかの夕焼と風呂敷と 楸邨
皆川先生の応召は、昭和一八年末。二○年八月一五日終戦。その一○日後の二五日、ハルマヘラ島の第三二師団第一野戦病院で戦病死された。栄養失調による衰弱の果てであった。無念であったろう。無念である。
(川崎展宏 中17回「創立60周年記念誌」P130)
恩師の面影
- 1944(昭和19)年 3月時点 「八高会 卒業50周年記念誌」より」
学芸会
- 10月 2日(土)午前8時半開催
- 午前中 一・二・三年、午後 四・五年合流
- 開会挨拶
- 閉会挨拶
「報國団雑誌 第20号」
- 「報國団雑誌 第20号」は、1944(昭和19)年2月11日発行されました。
- 中17回 三宮 洋 様より寄贈いただきました。
- 「皆川一郎」先生が出征され「皆川先生出征」が掲載されています。
- 昨年度の「報国団雑誌 第19号」で好評を博した「先生方」のぶら下がり取材「秋晴れの八角塔」続編が掲載されています(下のボタンを押すと全文が表示されます)
「報國団雑誌 第20号」全文
- 以下のリンクから「報國団雑誌 第20号」全文をご覧いただけます。
- 「報國団雑誌 第20号」PDFファイルへのリンク
卒業アルバム
関連項目
*← 1942年度 (昭和17年度) *→ 1944年度 (昭和19年度)
脚注
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2025年3月10日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250310115117