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<!-- 歴代校長の写真は図書室にあるアルバムからスキャンすること -->[[ファイル:Example.jpg|thumb|200px|斎藤 清校長]]'''齋藤 清'''(さいとう きよし、1954年4月1日 - 1959年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(四代)
[[ファイル:04代 齋藤清 02p.jpg|thumb|250px|齋藤清 四代校長]]
'''齋藤 清'''(さいとう きよし、1954年4月1日 - 1959年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(四代)
==本校歴==
==本校歴==
:1955年  5月   女子制服を背広型に改定する。
:1955年  5月   女子制服を背広型に改定する。
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:1958年 7月      ブラスバンドを新設する。
:1958年 7月      ブラスバンドを新設する。
:1959年 3月      定時制生徒の給食用厨房室が完成する。
:1959年 3月      定時制生徒の給食用厨房室が完成する。
    
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:斉藤清校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。
[https://www.dropbox.com/scl/fo/5zfdyyedung9cb5g4g3a7/h?rlkey=9353a0qzbxdojtgaba1ea3i3x&dl=0 04_斉藤清]
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==エピソード==
: 昭和二十九年、岩本実次郎第三代校長の跡を継いで本校第四代校長になられたのが、斉藤 清(前江戸川高校々長・元新宿高校教顕)である。
先生は、柔遥五段というスポーツマンでもあり、又英語で数々の著作をもつ人でもあった。
受験の波が押し寄せてきた頃の校長のため、受験戦線でも頑張った。自ら週12時間の授業を受持ち、受験指導の陣頭に立った。
特に昭和三十一年の躍進により、大きく讃えられた。世閻の話題になったそうだ。
受験ばかりでなく、その他の事にも釆配を振った。体育館の建設等もよい例である。本校体育館は昭和二十年の空襲で焼失した後、そのままであった。ところが昭和
二十六年頃から討議され出したが予算の関係で何度も延期となりそれが二十九年頃から急に進展し三十年竣工となった。そして同年十ニ月二士二日、落成された。エ費は一千万円以上もかかったが、割と短期閻で完成された。当時は都内高校一の規模を持ち、国内の高校でも二位の広さがあり、設備の面では、他に類するものが無いという程であった。現在はさえないが、昔は見事なものであったろう。建設委員長は、御手洗毅氏(キャノンカメラ社長)であった。又、正門裏門を木扉から鉄扉に変えた。昭和十九年に鉄扉は、国策として献納され、木扉になっていた。裏門は三十年、正門は三十一年に鉄扉となった。
特筆すべきことは、創立記念日変更であろう。創立記念日は、元来五月五日であったが、五月五日は子供の日となったため、東京都に頼んで変更してもらった。昭和三十一年四月の事である。
ロード・レースも、この先生の時から行われ出した。スポーツマンらしく「僕は毎朝五時半に起きて水をかぶって、冷水まさつと体操をして、一時間前には学校へ来るよ。」と、体育館完成の当時、語られた。又、勉強と運動の両立を大いに説かれた。しかし、さすがの先生も、過労には勝てず、昭和三十二年二月脳出血に罹り三カ月問休蓑された。三十四年依願退職されたが、病には遂に勝てず、三十六年八月十日に心筋硬塞のため、残念にも亡くなられた。現在、遺骨は東生田の春秋苑に納められているとか。
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==関連項目==
==関連項目==
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2023年12月12日 (火) 23:03時点における最新版

齋藤清 四代校長

齋藤 清(さいとう きよし、1954年4月1日 - 1959年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(四代)

本校歴

1955年 5月   女子制服を背広型に改定する。
1955年 12月 5日 全校マラソンを実施する。(以後継続)、 
1955年 12月30日 体育館(財源PTA)完成、落成式を開催する。   
1956年 2月 スケート教室実施、以後毎年実施する。 
1956年 4月14日 開校記念日を5月4日に変更する。
1958年 4月14日 補習科再開、工作室を教室として使用する。(1学級編成で初年度93名、61年度より150名となる。)
1958年 7月 ブラスバンドを新設する。
1959年 3月 定時制生徒の給食用厨房室が完成する。


斉藤清校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。

04_斉藤清

エピソード

昭和二十九年、岩本実次郎第三代校長の跡を継いで本校第四代校長になられたのが、斉藤 清(前江戸川高校々長・元新宿高校教顕)である。

先生は、柔遥五段というスポーツマンでもあり、又英語で数々の著作をもつ人でもあった。 受験の波が押し寄せてきた頃の校長のため、受験戦線でも頑張った。自ら週12時間の授業を受持ち、受験指導の陣頭に立った。 特に昭和三十一年の躍進により、大きく讃えられた。世閻の話題になったそうだ。 受験ばかりでなく、その他の事にも釆配を振った。体育館の建設等もよい例である。本校体育館は昭和二十年の空襲で焼失した後、そのままであった。ところが昭和 二十六年頃から討議され出したが予算の関係で何度も延期となりそれが二十九年頃から急に進展し三十年竣工となった。そして同年十ニ月二士二日、落成された。エ費は一千万円以上もかかったが、割と短期閻で完成された。当時は都内高校一の規模を持ち、国内の高校でも二位の広さがあり、設備の面では、他に類するものが無いという程であった。現在はさえないが、昔は見事なものであったろう。建設委員長は、御手洗毅氏(キャノンカメラ社長)であった。又、正門裏門を木扉から鉄扉に変えた。昭和十九年に鉄扉は、国策として献納され、木扉になっていた。裏門は三十年、正門は三十一年に鉄扉となった。 特筆すべきことは、創立記念日変更であろう。創立記念日は、元来五月五日であったが、五月五日は子供の日となったため、東京都に頼んで変更してもらった。昭和三十一年四月の事である。 ロード・レースも、この先生の時から行われ出した。スポーツマンらしく「僕は毎朝五時半に起きて水をかぶって、冷水まさつと体操をして、一時間前には学校へ来るよ。」と、体育館完成の当時、語られた。又、勉強と運動の両立を大いに説かれた。しかし、さすがの先生も、過労には勝てず、昭和三十二年二月脳出血に罹り三カ月問休蓑された。三十四年依願退職されたが、病には遂に勝てず、三十六年八月十日に心筋硬塞のため、残念にも亡くなられた。現在、遺骨は東生田の春秋苑に納められているとか。

関連項目

着任:1954年4月1日
退任:1959年3月31日
前 任 在 任 後 任
岩本 實次郎

1954年度 (昭和29年度)

1955年度 (昭和30年度)

1956年度 (昭和31年度)

1957年度 (昭和32年度)

1958年度 (昭和33年度)

上原 好一



関連事項

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脚注: ・

2023年12月12日:直近編集者:Mchika
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