「1949年度 (昭和24年度)」の版間の差分
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
57行目: | 57行目: | ||
1949(昭和24)年4月から第8新制高校となった。その年1年生を1学級60名に増員し、その年に25名の女子生徒を募集したが応募者は9名であった。選抜の結果4名の女子生徒の入学を許可して男女共学の緒を開いた。1950(25)年からは100名ずつ、男子と3:1の割合で入学している。 | 1949(昭和24)年4月から第8新制高校となった。その年1年生を1学級60名に増員し、その年に25名の女子生徒を募集したが応募者は9名であった。選抜の結果4名の女子生徒の入学を許可して男女共学の緒を開いた。1950(25)年からは100名ずつ、男子と3:1の割合で入学している。 | ||
<br> | <br> | ||
'''敬と愛をもって共学の美果を収めよ'''<br> | |||
1949(昭和24)年4月11日、共学開始の年の始業式で岩本校長は共学について次のような訓示を行った。<br> | |||
「女子に対する何の設備も持たず、女子特有の教科も設けないところへ入学せられた4生徒には余程の覚悟と決心とがあったに違いないが、またわが校風を慕って来られたかとも考えられる。多数の男生徒諸君と伍して学ばんとする態度には大いに敬意を払い幻滅の悲哀を感ぜしめないだけの覚悟を持ってもらいたい。在来の生徒諸君の中には女生徒の入り来らんことを望んでいた者も少くなかったようであって、それらの人々にとっては幾分の希望が達せられたことであって、恐らくは共学によって得られることの多きを考えていたに違いない。従って単なる好奇心の満足ということであってはならぬと思う。お互に公明正大の態度を持って万一にもひんしゅくするような事態の発生を起してはならぬ。正しい意味の敬と愛とを以て交り共学の美果を収めるような素地を築いてもらいたい。」<br> | |||
===== 入学印象記 1A 丸山啓子 =====<br> | |||
私が8高に入ろうと思ったのは近所の本校3年の方に「女子を募集する」と伺ったからです。幸い親も賛成してくれました。「もし私が男だったら入りたい」と前から思っていたことが今度急に実現したわけなのです。本校は総体的にみて程度が高く入った甲斐はありました。しかし何という掃除が行き届かない汚い学校なのでしょう。私はあきれてしまいました。あまりにも男の方は清潔感というか美的観念がなさすぎると思います。<br> | |||
男の方は乱暴ですが体裁をつくろわず、物事に拘泥せぬ点大変よいと思います。ところが私達と友達になって下さろうとはなさいません。私達は皆さんとお友達になりたいのです。というのは妙に敬遠され、特別扱いされるのがいやだからです。どうかそういう意味において互いに理解し助け合いつつ、意義ある学園生活を送ろうではありませんか。(1952(昭和27)年卒、最初に4名入学した女子生徒。8高新聞第5号より)<br> | |||
(「創立50周年記念誌」P67)<br> | (「創立50周年記念誌」P67)<br> | ||
'''ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト'''<br> | '''ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト'''<br> | ||
72行目: | 78行目: | ||
| style="text-align:center" |世 相 | | style="text-align:center" |世 相 | ||
|- | |- | ||
|style="vertical-align:top"| | |style="vertical-align:top"| | ||
4月 新制大学発足<br> | |||
7月 下山・三鷹事件<br> | |||
8月17日 松川事件<br> | |||
10月1日 中華人民共和国成立宣言<br> | |||
11月3日 湯川秀樹氏ノーベル賞受賞<br><br> | |||
流行語-竹馬経済・つるしあげ・アジャパー<br> | |||
流行歌-長崎の鐘<br> | |||
|} | |} | ||
</div> | </div> |
2023年12月3日 (日) 14:45時点における最新版
(編集中)→「議論」参照 (編集完了)
1949(昭和24)年度
| |
できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月 2日 始業式 4月 3日 健康診断 9月1日 始業式 1月X日 始業式 |
“小山台”は地名からとった 1949(昭和24)年4月都教育委員会によって都立新制高校の名称が全般的に変更されることとなり、本校でも在校生、職員、父母、卒業生対象に新校名を募集した。「小山台高校」のほか「南陵高」「武蔵高」「尾山台高」などが候補にのぼった。
「小山台」は地元の地名で親しみあるものとして多くの職員の賛同を得て決定された。
|
世 相 | |
4月 新制大学発足 |
できごと
- 4月 「高4回生」が併設中学校3年を修了し、新制都立第八高等学校の1年に進学。1A~1Kまで9クラス。→「高4回生のページ」にたくさんの資料がありますのでご覧ください。
- 4月 1日 男女共学実施により初めて女子4名が入学した。1Aに4名配属。
- 4月 1日 全日制課程は8学級並進24学級、定時制4学級並進16学級を完成規模とする
- 4月30日 後援会を発展的に解消し、東京都立第8高等学校PTA誕生
- 4月 学校防火組織を作る
- 5月 区立移管反対署名運動を行う
- 7月 高等学校野球全国大会東京都予選決勝で慶応に敗れ第2位となる
- 1月 28日 本日付けをもって、校名を東京都立小山台高等学校と改称する
- 2月 生徒生活規約きまる
- 2月 8日 教育庁より来年度の募集要項「男子300名、女子100名」と決定との通告あり
- 3月 2日 卒業式 高2回生(男子265名)
- 3月 生徒会会則きまる
- 3月20日 校名の変更に伴い、PTA名も東京都立小山台高等学校PTAと改称される
教職員
職名 | 担任学科 | 氏 名 | 担任 | 分 掌 | 班活顧問 | 本校就職 | 後援会 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
校長 | 修身 | 岩本 實次郎 | 1923/04/12 | |||||
教諭 | 国語 | 田村 富治郎 | 1934/03/31 | |||||
坂井 寿夫 | 3B | 1941/03/31 | ||||||
松永 正修 | 1939/03/31 | |||||||
落合 光禎 | 1945/09/30 | |||||||
舞田 正達 | 3E | 学年主任 | 1939/06/30 | |||||
渋谷 素男 | 1946/05/15 | |||||||
伊藤 茂 | 1948/06/10 | |||||||
社会 | 日下部 寅次郎 | 3A | 1939/03/31 | |||||
森 貞成 | 1944/03/31 | |||||||
木下 明 | 1947/04/30 | |||||||
平井 正士 | 1947/06/30 | |||||||
宮田 時雄 | 1947/06/15 | |||||||
塩野入 啓晃 | 1948/03/31 | |||||||
野々山 正司 | 1949/03/31 | |||||||
地理 | 松木 茂 | 1931/03/31 | ||||||
数学 | 高輪 休郎 | 1925/05/15 | ||||||
赤沼 実 | 1929/10/09 | |||||||
崎谷 巖 | 1940/03/26 | |||||||
奥野 一雄 | 3D | 1946/03/31 | ||||||
松岡 剛 | 1947/10/10 | |||||||
不島 静夫 | 1947/09/30 | |||||||
理科 | 桂 英二 | 1948/08/31 | ||||||
物理 | 氷見 至 | 1944/09/20 | ||||||
化学 | 大岩 誠 | 1944/07/14 | ||||||
園山 忠夫 | 1946/09/15 | |||||||
生物 | 矢野 佐 | 1942/03/31 | ||||||
松田 亀吉 | 1938/03/31 | |||||||
杉村 親一 | 1947/03/31 | |||||||
英語 | 大伴 峻 | 1924/03/31 | ||||||
中村 禎 | 1938/03/31 | |||||||
大島 長次 | 1945/06/20 | |||||||
深堀 修 | 3C | 1945/10/31 | ||||||
保健体育 | 岐部 信之助 | 1924/02/11 | ||||||
薗頭 潔 | 1946/08/31 | |||||||
松永 節 | 1949/03/31 | |||||||
榎木 繁男 | 1949/03/31 | |||||||
音楽 | 柳 力 | 1948/03/31 | ||||||
工作 | 田村 耕 | 1941/07/20 | ||||||
書道 | 麻生 秀二 | 1923/03/31 | ||||||
嘱託 | 国語 | 飯沢 紳美 | 1944/03/31 |
講師・校医
教科 | 氏名 | ||
---|---|---|---|
講師 | 国語 | 栗原 源七 | |
英語 | 黒岩 善吉 | ||
美術 | 武田 良三 | ||
学校医 | 岡田 省三 | ||
武田 久孝 | |||
学校医 | 歯科 | 鎌田 栄一 |
事務職員
職 名 | 氏 名 | 着 任 |
---|---|---|
事務長 | 小田 実 | 1947/10/01 |
書記 | 永山 政信 | 1924/04/15 |
事務主事 | 唐木 厚 | 1946/10/09 |
井上 とみ | 1948/10/15 | |
事務助手 | 岡本 秀男 | 1947/06/07 |
中村 満 | 1948/11/15 | |
主事補 | 茂木 弘 | 1947/02/22 |
事務補佐 | 川上 清 | 1946/01/31 |
竹花 隆司 | 1948/03/31 | |
用務員 | 上田 信吉 | 1936/07/22 |
君塚 盛 | 1945/03/15 | |
河隅 幸一 | 1946/03/31 | |
平野 福三郎 | 1947/05/06 | |
守衛 | 高橋 芳雄 | 1946/07/09 |
卒業アルバム
八高新聞、小山台新聞
- 1949(昭和24)年度発行 この年度の新聞発行元は「新聞部」と記載されている。また、1950年1月28日校名が東京都立小山台高等学校と改称されたのに伴い、「八高新聞」→「小山台新聞」と改称された。
- 八高新聞 1面「新校名 小山臺[1]に決定」 「八高新聞1949(昭和24)年7月11日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「八高新聞1949(昭和24)年7月11日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1950(昭和25)年3月10日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「小山台新聞1950(昭和25)年3月10日発行」へのリンク
関連項目
*← 1948年度 (昭和23年度) *→ 1950年度 (昭和25年度)
脚注
- ↑ 「臺」は「台」の旧字
・
2023年12月3日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20231203144557