「トーク:1954年度 (昭和29年度)」の版間の差分

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'''学校行事'''
'''学校行事'''
4月1日 都立江戸川高校長斎藤清 本校校長に就任
4月1日 都立江戸川高校長斎藤清 本校校長に就任
4月5日 入学式
4月5日 入学式
4月11日~15日 3年修学旅行
4月11日~15日 3年修学旅行
5月14日 1・2年遠足
5月14日 1・2年遠足
9月29日 進学に関する講演会
9月29日 進学に関する講演会
10月30日 遠足
10月30日 遠足
11月3日 運動会
11月3日 運動会
11月6日 学芸・展示会
11月6日 学芸・展示会
2月4日 生徒総会「委員長及び委員の二期制の件」など
2月4日 生徒総会「委員長及び委員の二期制の件」など
3月8日 高等学校第7回卒業式
3月8日 高等学校第7回卒業式
3月27日~4月1日朝 新3年修学旅行
3月27日~4月1日朝 新3年修学旅行


'''世相'''
'''世相'''
6月3日 教育の政治的中立に関する二法公布
6月3日 教育の政治的中立に関する二法公布
7月1日 陸海空自衛隊発足
7月1日 陸海空自衛隊発足
9月26日 洞爺丸事件
9月26日 洞爺丸事件


流行語:「ロマンスグレー」「スポンサー」
流行語:「ロマンスグレー」「スポンサー」
流行歌:「お宮さん」
流行歌:「お宮さん」
'''当時の運動会'''
榎木繁男(旧体育科職員、産業能率大学教授)
 運動会は、生徒会の最大の行事で、体育委員と生徒代表の応援団長・副団長で行うようになったのは昭和26年頃と記憶しています。運動会は生徒の手でやるべきで、当日先生は表面に出ないで、できるならば体育科の先生も背広を着て職員のテントの中で見物しようというのが我々の目標でした。そのためには、当日までの準備にはどんな努力もおしまないという姿勢で取り組みましたから、35年頃までは、各団の種目練習が終わって下校時間後毎日遅くまで、団長・副団長を中心に、ルールの検討や運営の打合せの会議をしたものです。
 運動会の種目もこの頃検討して残った大部分のものが今に引き継がれています。
 団長をやっていると受験に影響するというので団長のなりてがなく苦労した時代があったが、38年かに、青組が最後のリレーで劇的な逆転優勝をしたのをきっかけに団長の希望者がふえたのを憶えています。当時の団長達は、生徒を代表するリーダーばかりで、社会人になっても立派にリーダーシップをとって活躍している人達ばかりでしたので、3年生も積極的に協力し、運動会は益々充実したものになりました。
 それも全校生徒が、自主性豊かな優秀な生徒だったので、我々の意図を十分理解してくれた結果だったと思います。
(『60周年記念誌』P153より)

2023年7月22日 (土) 15:23時点における最新版

学校行事

4月1日 都立江戸川高校長斎藤清 本校校長に就任

4月5日 入学式

4月11日~15日 3年修学旅行

5月14日 1・2年遠足

9月29日 進学に関する講演会

10月30日 遠足

11月3日 運動会

11月6日 学芸・展示会

2月4日 生徒総会「委員長及び委員の二期制の件」など

3月8日 高等学校第7回卒業式

3月27日~4月1日朝 新3年修学旅行

世相

6月3日 教育の政治的中立に関する二法公布

7月1日 陸海空自衛隊発足

9月26日 洞爺丸事件

流行語:「ロマンスグレー」「スポンサー」

流行歌:「お宮さん」


当時の運動会

榎木繁男(旧体育科職員、産業能率大学教授)

 運動会は、生徒会の最大の行事で、体育委員と生徒代表の応援団長・副団長で行うようになったのは昭和26年頃と記憶しています。運動会は生徒の手でやるべきで、当日先生は表面に出ないで、できるならば体育科の先生も背広を着て職員のテントの中で見物しようというのが我々の目標でした。そのためには、当日までの準備にはどんな努力もおしまないという姿勢で取り組みましたから、35年頃までは、各団の種目練習が終わって下校時間後毎日遅くまで、団長・副団長を中心に、ルールの検討や運営の打合せの会議をしたものです。  運動会の種目もこの頃検討して残った大部分のものが今に引き継がれています。  団長をやっていると受験に影響するというので団長のなりてがなく苦労した時代があったが、38年かに、青組が最後のリレーで劇的な逆転優勝をしたのをきっかけに団長の希望者がふえたのを憶えています。当時の団長達は、生徒を代表するリーダーばかりで、社会人になっても立派にリーダーシップをとって活躍している人達ばかりでしたので、3年生も積極的に協力し、運動会は益々充実したものになりました。  それも全校生徒が、自主性豊かな優秀な生徒だったので、我々の意図を十分理解してくれた結果だったと思います。 (『60周年記念誌』P153より)