1967年度 (昭和42年度)

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1967(昭和42)年度

できごと 詳細・引用・寄稿
4月1日 伊藤太一郎校長(都立上野高校教頭より)、着任

4月8日 午前 始業式
4月8日 午後 入学式 高22回生(男子304、女子102、計406名) この年度より「学校群制度」による新入生が入学。
4月17日~19日 健康診断
5月4日 開校記念日
5月17日 春の遠足。
5月26日~28日 中間テスト
5月27日 PTA総会
6月2日 生徒総会
6月15日~16日 2・3年ア・テスト
6月30日 腸パラ予防接種
7月1日 1年PTA
7月8日 2年PTA
7月10日~13日 期末年テスト
7月20日 終業式
7月21日 夏期休業(~8月31日)
7月22日~28日 林間学校
8月4日~8日 臨海学校


9月1日 始業式
9月2日~5日 1・2・3年ア・テスト
9月6日~8日 水泳大会(午後)
9月30日~10月1日 第22回寒菊祭(学芸会、展示会)
10月8日 運動会、9日代休
10月12日~14日 結核検診
10月21日~24日 中間テスト
10月25日 インフルエンザ予防接種
11月2日 生徒会役員認証式
11月4日 インフルエンザ予防接種
11月9日 1・3年遠足
11月9日~13日 2年修学旅行
11月15日~18日 3年ア・テスト
11月18日 1年PTA
11月24日 生徒総会
11月25日 2年PTA
11月29日 防火演習
12月4日 3年父兄会
12月14日~18日 期末テスト
12月25日 終業式
12月26日 冬期休業(~1月7日)


1月2日~6日 スキー教室
1月8日 始業式
1月9~10日 1年ア・テスト
1月9~11日 2・3年ア・テスト
1月27日 ロードレース
2月23日 選抜テスト
3月8日~12日 期末テスト
3月18日 卒業式 高20回生(男子319、女子102、計421名)
3月22日 終業式
3月22日~26日 スキー教室



学校群制度期
 本校は、都立田園調布高校とともに第14群の高校として1967(昭和42)年2月初めて学校群制 度による入学者選抜学力検査を実施した。  同年度末、木村校長退任、4月に伊藤太一郎都立上野高校教頭が校長に就任した。昭和42年度以降、群制度による入学生徒を迎えたが、東京郡の学校教育における上述の新潮流のなかで本校補習科も1968(昭和43)年冬をもって廃止となった。  また、これより前、1966(昭和41)年ごろから起こったいわゆる大学紛争は、反戦・反安保の闘争と連鎖しつつ年を追って激化し、1968~69(昭和43~44)年にかけて深刻な様相を呈するに至り、そのような情勢を背景に高校の間にも紛争を生じた。本校においては、1969(昭和44)年秋に掲示・集会等の問題に関して生徒総会において討論が重ねられ、それらの論議をうけて翌1970(昭和45)年2月「掲示・集会等に関する規定」およびこれに関連する「協議会規定」が作られた。  翌1971(昭和46)年3月、学校群制度による最初の入学生徒が卒業し(第23回卒)、以後年々新しい卒業生・在校生が創立以来の伝統を受けつつ新たな局面のなかで若々しい活力を伸べようとしている。(樋口注:50周年記念誌では学校群の卒業年次が1年誤っていたので修正)  伊藤校長は教育界の流動する状況のもとで積極的な指導性を示して堅実な学校運営につとめ、1973(昭和48)年3月をもって退任した。4月班目文雄教育長指導部良が転じて校長に就任した。  さて、現今の高校教育の当面する状況に対応すべ<示された新学習指導要領によって昭和48年度中に新しい教育課程が編成され、本年度入学生徒より学年進行をもって実施に移された。これにより生徒全員参加のクラブ活動が新たに展開されることとなった。  本校は、今年度創立50周年を迎え、11月1日国立教育会館(虎ノ門会館)において記念式をあげ班目新校長はじめ教職員・生徒あいたずさえて小山台高校の未来をひらこうとしている。
(「50周年記念誌」P17) この年度より「学校群制度」による新入生が入学。


着任当時の思い出 直井銀治
四二年一月二四日木村校長の面接をうけ翌日合格の連絡をいただいた。木村校長は次のように激励して下さった。「木は一年目に花を咲かせると二年目には花が咲かない。根がよく張ってから仕事をしないと大きな仕事が出来ない。一年目は授業と仕事に打ち込み自分の基礎を作りなさい。教師の実力の基礎は授業にある。」校舎内を歩くと、天井が高く備品などのスケールが大きい。建設業者の意気込み、そして教師の気迫のようなものを感じた。三月一三日、校長は私を他の職員に紹介して下さる。学校要覧をいただいて承ると、合格者数東大40、東工大42、一橋大12、教育大3、都立大10、計107の数字に圧倒された。四月八日着任、一年E組の担任になる。主任の不島一先生、副主任の安藤先生からは、非常におおらかな校風を感じた。英語の原口先生から、リーダーは一課終了毎にテスト、作文は毎回テストと暗唱、文法は毎週一課、副読一本は一時間一頁以上進むように指導をうける。当時の英語科は、大島、深堀、勢山、羽部、原口、中山先生で、公私にわたって私を鍛えて下さった。三年生の授業は、特に予習に時間がかかり、生徒にも大変鍛えられたと思う。授業中の態度がすばらしく、熱心に質問し、感謝の手紙までくれたのは佐久間敏雄君だった。(英語科教諭)
(「創立60周年記念誌」P179)

ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
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(「創立XX周年記念誌」PYYY)

世 相

4月 都立高校の学校群制度発足
6月 大学紛争各地におこる

流行語-フーテン・ハプニング・対話
流行歌-ブルーシャトー・世界は二人のために



できごと

04.01 伊藤太一郎校長(都立上野高校教頭より)、着任
04.08 午前 始業式
04.08 午後 入学式 高22回生(男子304、女子102、計406名) この年度より「学校群制度」による新入生が入学。
04.17 健康診断(~19)
05.04 創立記念日
05.17 春の遠足
05.26 中間テスト(~28)
05.27 PTA総会
06.02 生徒総会
06.15 2・3年ア・テスト(~16)
06.30 腸パラ予防接種
07.01 1年PTA
07.08 2年PTA
07.10 期末年テスト(~13)
07.20 終業式
07.21 夏期休業(~08.31)
07.22 林間学校(~28)
08.04 臨海学校(~08)
09.01 始業式
09.02 1・2・3年ア・テスト(~05)
09.06 水泳大会(午後) (~08)
09.30 第22回寒菊祭(学芸会、展示会) (~10.01)
10.08 運動会
10.12 結核検診(~14)
10.21 中間テスト(~24)
10.25 インフルエンザ予防接種
11.02 生徒会役員認証式
11.04 インフルエンザ予防接種
11.09 1・3年遠足
11.09 2年修学旅行(~13)
11.15 3年ア・テスト(~18)
11.18 1年PTA
11.24 生徒総会
11.25 2年PTA
11.29 防火演習
12.04 3年父兄会
12.14 期末テスト(~18)
12.25 終業式
12.26 冬期休業(~01.07)
01.02 スキー教室(~06)
01.08 始業式
01.09 1年ア・テスト(~10)
01.09 2・3年ア・テスト(~11)
01.27 ロードレース
02.23 選抜テスト
03.08 期末テスト(~12)
03.18 卒業式 高20回生(男子319、女子102、計421名)
03.22 終業式
03.22 スキー教室(~26)


世相

1967年
04 都立高校の学校群制度発足
06 大学紛争各地におこる


流行語-フーテン・ハプニング・対話
流行歌-ブルーシャトー・世界は二人のために


学校群制度期

 本校は、都立田園調布高校とともに第14群の高校として1967(昭和42)年2月初めて学校群制度による入学者選抜学力検査を実施した。  同年度末、木村校長退任、4月に伊藤太一郎都立上野高校教頭が校長に就任した。昭和42年度以降、群制度による入学生徒を迎えたが、東京郡の学校教育における上述の新潮流のなかで本校補習科も1968(昭和43)年冬をもって廃止となった。  また、これより前、1966(昭和41)年ごろから起こったいわゆる大学紛争は、反戦・反安保の闘争と連鎖しつつ年を追って激化し、1968~69(昭和43~44)年にかけて深刻な様相を呈するに至り、そのような情勢を背景に高校の間にも紛争を生じた。本校においては、1969(昭和44)年秋に掲示・集会等の問題に関して生徒総会において討論が重ねられ、それらの論議をうけて翌1970(昭和45)年2月「掲示・集会等に関する規定」およびこれに関連する「協議会規定」が作られた。  翌1971(昭和46)年3月、学校群制度による最初の入学生徒が卒業し(第23回卒)、以後年々新しい卒業生・在校生が創立以来の伝統を受けつつ新たな局面のなかで若々しい活力を伸べようとしている。(樋口注:50周年記念誌では学校群の卒業年次が1年誤っていたので修正)  伊藤校長は教育界の流動する状況のもとで積極的な指導性を示して堅実な学校運営につとめ、1973(昭和48)年3月をもって退任した。4月班目文雄教育長指導部良が転じて校長に就任した。  さて、現今の高校教育の当面する状況に対応すべ<示された新学習指導要領によって昭和48年度中に新しい教育課程が編成され、本年度入学生徒より学年進行をもって実施に移された。これにより生徒全員参加のクラブ活動が新たに展開されることとなった。  本校は、今年度創立50周年を迎え、11月1日国立教育会館(虎ノ門会館)において記念式をあげ班目新校長はじめ教職員・生徒あいたずさえて小山台高校の未来をひらこうとしている。
(「50周年記念誌」P17より抜粋) この年度より「学校群制度」による新入生が入学。

〃僻地校〃を展示会のテーマに 大塚良秀

 熾烈な受験勉独の後に残った心の空虚感をなんとしても埋めなければならない。そんな気持ちが、我々を草木深い山奥の僻地校にまで行かせるエネルギーになったのだと思う。
 昭和四○年、四一年と二年連統学校祭で「僻地校」問題をとりあげ、自らが受け、そしてこれからも受けようとする教育と、山間僻地に展開するそれとの間に、何か矛盾するものは無いか、自分自身の眼でそれを確かめるため、栃木県栗山村の小中学校と、熊の草の分教場を訪れたのである。そこには、確かに我々の受けた教育の姿とは全く違う世界があった。しかし、それはまた自分たちの力では如何ともしがたい隔たりでもあった。
 我々は、僻地の小学生たちとの心の触れ合いを一番の土産に帰途に着いたのである。
 学校祭では、我々が見たまま感じたままをそのまま発表したのである。それは結果として、都会人が日頃目にしない世界を披露したにすぎなかったのかもしれない。つまり、我々の教育の物理的な現状と如何に違うか――劣悪な環境や設備等々といったものの比較論から、そのような山間僻地の教育にも何らかの光をあてるべきであるといった極めて一方通行の結論を出してしまったような気がしてならない。
 受験勉強で開いた空虚感を埋めることは、そんな単純な結論では、不可能であったはずだ。否、むしろ我の心は、あの山奥で子供たちと遊んだ時、すでに癒されていたのかもしれない。今でも忘れられないあの分教場の手塚先生の瞳は、僻地には僻地の教育があってよいのだと語りかけていたのかもしれない。
(高20回・昭43年卒 日本信販㈱社長室広報部課長代理)(創立60周年記念誌」P178より抜粋)

着任当時の思い出 直井銀治

 四二年一月二四日木村校長の面接をうけ翌日合格の連絡をいただいた。木村校長は次のように激励して下さった。「木は一年目に花を咲かせると二年目には花が咲かない。根がよく張ってから仕事をしないと大きな仕事が出来ない。一年目は授業と仕事に打ち込み自分の基礎を作りなさい。教師の実力の基礎は授業にある。」校舎内を歩くと、天井が高く備品などのスケールが大きい。建設業者の意気込み、そして教師の気迫のようなものを感じた。三月一三日、校長は私を他の職員に紹介して下さる。学校要覧をいただいて承ると、合格者数東大40、東工大42、一橋大12、教育大3、都立大10、計107の数字に圧倒された。四月八日着任、一年E組の担任になる。主任の不島一先生、副主任の安藤先生からは、非常におおらかな校風を感じた。英語の原口先生から、リーダーは一課終了毎にテスト、作文は毎回テストと暗唱、文法は毎週一課、副読一本は一時間一頁以上進むように指導をうける。当時の英語科は、大島、深堀、勢山、羽部、原口、中山先生で、公私にわたって私を鍛えて下さった。三年生の授業は、特に予習に時間がかかり、生徒にも大変鍛えられたと思う。授業中の態度がすばらしく、熱心に質問し、感謝の手紙までくれたのは佐久間敏雄君だった。
(英語科教諭)(創立60周年記念誌」P179より抜粋)

空を飛ぶ 小祝徹

 空を飛んでみたいと思い始めたのはずいぶん小さいころだったと思う。中学生のとき、友達のお父上がパイロットで、彼から飛行機の話を聞いたのが具体的な憧れの対象となったのだろうか、小山台にいたころはなんとかして空を飛んでみたいと思っていた。それが今、・パイロットという仕事をしているのだから、人生なにがきっかけになるか分からないものだと思う。飛行訓練の始まりは赤トンボのような小さな飛行機であったが、これがなかなか思うように動いてくれず、憧れていた空を飛ぶことがこんなにも汗にまみれ、緊帳の連統だとは思わなかった。しばらくして少し余裕がでてくると、上から見下す箱庭のような街、刻左と変化する雲、飛んでいることの総てが新鮮な感動の連続だった。地上で雨が降っていても、その雲の上には、青く眩しい空が果てしなく広がっている。その空の中を自分で飛んでいるという充実感は、何年飛んでいても変わらない。外国ってどんな所だろう。小学生のころ見慣れている世界地図には、ちっぽけな日本列島のまわりにいくつもの国々がひしめいている。是非、自分の眼で確かめてみたかった。いろいろな国に行ってみると、その国独特の匂い・味があり、そしてその国独特の人々が住んでいる。気候・自然が違い、国民性というものがこれほど違うものかと驚かされ、興味は尽きない。飛べるかぎり飛んでいたいと思う。 (高20回・昭43年卒 日本航空㈱B747運航乗員部・副操縦士)(創立60周年記念誌」P178より抜粋)

教職員

職名 教科目 氏 名 担任 校務分掌 班活顧問 就 任 PTA・菊桜会 財団小山台
校長 (国語) 伊藤太一郎 1967/04/01 理事長
教頭 数学 飛岡 正治 1964/04/16 常任理事
教諭 国語 舞田 正達 2G 庶務部 1939/06/30
落合 光禎 補習科 進路部長 ブラスバンド 1945/09/30
長瀬 治 庶務部長 1957/04/01
安藤千鶴子 1H 図書部 華道 1960/04/01
湯沢賢之助 3F 生徒部 バスケットボール 1962/04/01
河野 通敬 2D 生徒部 新聞 1963/05/01
土屋 泰男 3D 進路部 フォークダンス 1965/04/01
野沢 穣 1C 生徒部 ワンゲル 1965/04/01
社会 地理 宮田 時雄 教務部長 ラグビー 1947/06/15
斎藤 績 1B 教務部 バドミントン 1962/04/01
世界史 三橋 力 補習科主任 合唱 1949/05/15
日本史 荒久保忠夫 3A 学年主任 写真 1954/09/16
沢井景之助 3B 教務部 歴史研究 1960/04/01
政経 塩野入啓晃 2B 進路部 演劇 1948/03/31
倫社 野々山正司 2A 学年主任 心理研究 1949/03/31
数学 奥野 一雄 3G 庶務部 天文 1946/03/31
不島 静夫 1A 学年主任 鉄道研究 1947/09/30
竹内 庸雄 1950/03/31
川又 之裕 図書部長 野球 1957/04/01
斎藤 昉 補習科 美術 1960/04/01
石井 孝雄 2F 教務部 1960/04/01
若林 明弘 2C 教務部 卓球 1963/04/01
児玉 一成 1D 教務部 柔道 1967/04/01
理科 物理 永見 至 1944/09/20
鬼崎 菖三 2年係 庶務部 ラジオ 1967/04/01
森  章 2年係 生徒部 物理 1967/04/01

化学

園山 忠夫 1G 進路部 化学 1946/09/15 理事
生物 矢野 佐 2年係 図書部 1942/03/31
鈴木 亨 3C 進路部 生物 1951/04/01
水越 虔二 研究所 1963/05/01
地学 多胡 忠治 3年係 生徒部 社会研究 1965/04/01
英語 大島 長次 軟式テニス 1945/06/20
深掘 修 PTA書記長 硬式テニス 1945/10/31
勢山 秀子 3E 図書部 ESS 1949/05/31
中山 重雄 2E 保健部 水泳 1958/04/01
原口 正則 1年係 庶務部 自動車 1958/04/16
羽部 英二 生徒部長 文芸 1965/04/01
直井 鋠治 1E 進路部 剣道 1967/04/01

保健体育

榎木 繁男 保健部 陸上競技 1949/03/31
小林 年子 2H 保健部 舞踊 1952/04/01
阿部 修二 3H 教務部 器械体操 1958/01/01
粂 太郎 1F 生徒部 サッカー 1964/09/01
中村 洋一 1年係 保健部 バレーボール 1967/04/01
家庭 持塚 多喜 3年係 保健部・書記 1951/02/28
司書教諭 図書 矢口 洋子 図書部 弦楽 1960/07/16
養護教諭 養護 斎藤 千代 保健部 1964/03/01

講師・校医

教科 氏名
非常勤講師 社会 世界史 千葉 茂雄
二谷 貞夫
理科 化学 大岩 誠
白井 延子
林 良重
生物 加藤 僖重
小清水義隆
英語 清水 忠
長見 久竪
芸術 音楽 熊坂 良雄
美術 武田 良三
書道 黒沢 岩資
校医 内科 武田 久孝
耳鼻科 仙頭 哲夫
眼科 早川 和夫
歯科 鎌田 栄一
薬剤師 三浦 薫

事務職員

職 名 氏 名 就 任
事務長 佐藤 二郎 1966/04/01
事務主事 井上 とみ 1948/10/15
諸  孝 1961/05/01
真保 孝 1962/07/01
事務主事補 内田 誠 1961/05/01
見村すみ子 1964/04/01
森井 節子 1967/04/01
用務員 平野福三郎 1947/05/01
山本 瑛子 1962/05/17
槌屋貞二郎 1964/04/01
樋口和三郎 1967/04/01
警備員 浜村辰次郎 1954/08/01
神原 孝史 1966/02/01
PTA(事務) 小林 泰代 1964/04/01
教務(大職) 熊谷 等 1966/04/01
理科(助手) 金沢 昭二 1966/04/01
図書(司書) 菅原千枝子 1965/04/01
補習科(事務) 竹内美代子 1966/04/01
北村 邦夫 1966/04/01
用務(清掃) 槌屋 フミヨ 1963/04/01

生徒在籍数  (1967年4月現在)

A B C D E F G H
1年 38 38 38 37 38 38 38 39 304
13 13 12 13 13 13 13 12 102
51 51 50 50 51 51 51 51 406
2年 40 40 40 39 39 40 39 39 316
12 12 12 13 13 12 12 13 99
52 52 52 52 52 52 51 52 415
3年 40 40 40 40 40 40 40 39 319
13 11 13 13 13 13 13 13 102
53 51 53 53 53 53 53 52 421
総 計 939 303 1,242


寒菊祭(学芸会、展示会、招待試合、後夜祭)

9月30日(土)、10月1日(日) 開催




「1967年寒菊祭.pdfファイル」へのリンクをクリックすると「1967年寒菊祭プログラム」全文表示「1967年寒菊祭」は以下のリンクからご覧になれます。
1967年寒菊祭.pdfファイルへのリンク



文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
文化祭(寒菊祭)一覧表



運動会

10月8日(日) 開催
黄組優勝




菊香 第2号

「生徒会誌 菊香」の第2号が発行されました。




「生徒会誌 菊香 第2号」pdfファイルへのリンクをクリックすると「生徒会誌 菊香 第2号」の全文が表示されます。「生徒会誌 菊香 第2号」全文 は以下のリンクからご覧になれます。
「生徒会誌 菊香 第2号」pdfファイルへのリンク


生徒会誌「菊香」の一覧はこちら → 生徒会誌「菊香」一覧表



寒菊 (全定合同機関誌 第10号)

1968(昭和43)年 3月 1日発行 (高20回 大川洋二さんから提供いただきました)




「寒菊 (全定合同機関誌 第10号)」は以下のリンクからご覧になれます。(工事中です)
寒菊10号1967_昭和42年度.pdfファイルへのリンク



寒菊 (全定合同機関誌)の一覧はこちら → 全定合同機関誌「寒菊」一覧表



卒業アルバム

この年度の卒業生は、「高20回生」(男:319名、女:102名)となります。


卒業アルバムは「高20回生」のページに掲載されています。





小山台新聞

1967(昭和42)年度発行
→「八高・小山台新聞」一覧へ移動



関連項目

 * ← 1966年度 (昭和41年度)    * → 1968年度 (昭和43年度)


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脚注




2025年3月13日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20250313111703