藍沢 満

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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藍沢 満 先生 (高38回卒業アルバム)

藍沢 満(あいざわ みつる、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。都立小山台高校 英語教諭

本校歴

1973(昭和48)年 4月 1日 都立小山台高校英語教諭として赴任
1990(平成 2)年10月20日 都立小山台高校を退任




故 藍沢先生を偲んで

「敬愛された故藍沢先生」
   伊藤 久雄(校長)

 藍沢先生は、都立王子工業高等学校、同第四商業高等学校を経て、昭和48年小山台高等学校に着任されました。以来18年に亘り本校英語教師として教鞭をとられました。この間、学級担任、学年主任として先生の人間性が迸る指導をされました。
 「藍沢先生の雰囲気は私にはなんとも説明し難い一種独特のものがあったのですが、あえて言葉にするなら厳しいけれども優しさのある、温かみのある不思議なものでした。まるで、心の中まで見透かされ引き付けられるような魅力が先生には備わっている気がしました。」教え子の一女子生徒の感想です。
 班やクラブでは野球、卓球、ESSなどで生徒と交流指導されました。英語の授業では、生徒に強烈な印象を与え、迫る指導をされました。また、全国の数学関係教員派遣の海外視察においては、通訳として大活躍されました。なんでも全力投球され、手を抜くことのない先生の人柄が偲ばれます。
 そのような藍澤先生が病に倒れたのは、昭和63年の頃と伺っております。不屈の精神をもった先生も天命には勝てず、平成2年10月8日、50歳の坂を前に不帰の客となってしまわれました。
 このたび、藍澤を敬愛する人々が相寄り、計画がすすめられ、藍澤先生を偲ぶよるがとなる。心の籠った冊子を作ろうという運びとなりました。誠に時宜をえたもので、藍澤先生もさぞお喜びになられるのではないかと想像しております。
 藍澤先生のご冥福をお祈りいたします。

「藍沢満先生の思い出」
   下河原五郎(元校長)

 昨年の10月8日、藍澤満先生が幽明鏡を異にされ、不帰の客となられて早や一年も過ぎてしまった。英語科の小山晃三先生から、藍澤先生と親しく接し、共に小山台高校に勤めた者たちの融資で、先生の生前の思い出などを活字にまとめ、ご遺族に差し上げ度いが、という話をうかがい、藍澤先生の発病当時の校長として、今回の企画には大変感謝するとともに、ぜひ代表の一人に加えて頂くことに致した次第です。
 私にとって、藍澤先生のことといえば、何を置いても、先生のすばらしい学年経営ぶりと、不治の病の発病の知らせのショックでした。
 昭和58年4月に私が小山台高校に赴任した時、先生は3年担任でした。1年間の先生の仕事ぶりは、誠実かつ着実という表現がピッタリで、同僚や生徒達からも絶大な信望があり、また、進路指導にも抜群の力量を発揮されました。昭和59年度の校務分掌の決定に際しては、先生の力量とお人柄に私は惚れ込み、本来ならば卒業生を出した次の年は、1年間担任を休む慣習があると知りながら、新1年の学年主任にぜひお願いすることにしたのを思い出します。
 小山台高校における校務分掌の決定は、学内選挙で選ばれた人事諮問委員の意見を汲みとりながら、校長が決定、委嘱することにいなっていました。私にとって、赴任してはじめての校内人事であり、そのうえ、入試成語がグループ選抜制度に代わって間もない時期の学年主任はこれからの小山台高校の発展の成否を決定づける最も大切なポストと考えていました。それだけに、すばらしい力量を持った藍澤先生にお願いしたかったのです。事実、先生は、3年間にわたって、各学級担任や学年付きの先生方の心をよくとらえ、その大役を立派に果たし、昭和61年度3月卒業時の藍澤学年の大学入試の成果で見事に応えてくれました。現役での国立大学や有名私大への入学者数は、近年にない良い成績を上げたのでした。
 先生は、都教委の新しい異動方針によって、昭和63年度末にはまことに残念ながら、他行へ異動をしなければならず、従って、再び学年主任をお願いするわけにも行きません。そこで昭和63年4月からは、新学年主任を側面から支えて頂く立場で、1年の学級担任をお願いしたわけです。このときすでに先生の異動どころか、命をも虫蝕む病が、先生の体の内で動きはじめていようとは、だれが想像できたでありましょう。
 それは7月の半ばであったと思います。英語科の先生から、藍澤先生が夏休み海外旅行に先立つ健康診断で、血液、特に血小板に少し異常が見つかった事、旅行を取り止め、入院治療をする必要があることを聞きました。
 何か私の胸につかえるいやな予感がないではなかったのですが、不治の病に冒されていようとは、思いも寄らないことでした。
 数日後、奥様が来校されて、涙ながらに病気が不治のものであることを告げられ、私の全身から一気に血の引く思いがしたことを忘れることが出来ません。それとおもに私の脳裏を駆けめぐったのは、先生の死去に対する恐れと、やつれ行く先生の姿でした。何度打ち消そうとしても、どうすることもできなかったことを、今あらためて思い出します。というのも、前年の正月には、全く元気で酒を汲み交わした私の弟が、同じ病にかかり、わずか半年の患いで丁度1年前の7月に失くした時の様々の思い出が、走馬灯のようによみがえり、それが藍澤先生の姿と重なり合って、目の前に浮かぶのを、どうすることもできなかったからでした。
 奥様のお話によると、先生は自分の病が不治のものであることを知らず、血小板の異常で必ず良くなると信じておられること。従って他の先生にはそのことを告げないでほしいとのこと、病気は完治の非常に困難な病であること、無菌室内で治療をすすめるので、お見舞いなどは差し控えてほしいことや、主治医が私の友人であることについても、とつとつと語られました。
 大学時代の同級生のT兄が、藍澤先生の入院先の血液内科の主任教授をしていることが、私には何より心強く思ったことでありました。
 その後、幾度かT教授に会い、藍澤先生の治療のお願いや、病気の様子を伺って来たが、先生はよく闘病生活に耐え、模範的な患者であることや、やがて寛解(健康状態に復すること、治療とはいわない)に達し、一度は社会復帰ができるであろうこと、異常の幹細胞が生き残り、増殖再発する恐れが非常に高いこと、さらに、drんD理の病気は、統計的に2年後の生存率が非常に低い型のものであることなどを伺い、祈る思いの日々でありました。
 先生の教団へ復帰したいという強い信念に支えられた闘病治療の成果は、みるみる現われ、年明けの1月からは、学校へ体ならしの出校ができる程に快復され、明るいお顔でお目にかかれたことに安どするとともに、私にはこのまま時計が止まってくれないかと思う日々でありました。
 春が近づくに従い、先生の健康状態もますます安定したことから、4月の新学期からは持時間を少し軽減しながらも、正規の教壇に復帰して頂くことにし、そのための予算措置を都教委にお願いしたのが、私の停年退職直前の最後の仕事となりました。
 小山台高校退職後も、先生のその後の健康状態を案じていましたが、8月には再入院されたことを知り、統計数値から少しでも外れてほしいと願わずにはいられませんでした。しかしながら、再び教壇に復帰することはかなわず、入退院を繰り返しながら、終に昨年の10月8日、不帰の客となられたことは、まことに慚愧にたえません。先生もさぞ残念であったと思います。心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。

「良き友は忽ちに去る」
   毛利 順男(前校長)

 昔からの諺に「去る者日々にうとし」というのがある。歳月が思い出を消してゆく、という意である。又「死んだ子の歳を数える」というのもあって、もはや返らぬ事を嘆く無明のたとえである。
 藍澤さんに関する私の場合は、その諺とは多少違っていて、一つ明瞭に想起される事柄がある。年月が消すとか曇るとかでない。それは端的に言って、当人が自身の病が何であろうかをよく知っていて、不治の観念をもっていたことである。つまり、不治であると考えつつ、残余の日常に淡々と臨んでいたということである。
 私が病人を慰めるための慣用句で「早く良くなって・・・。」などと無神経に言えば、当人は静かに、一呼吸おいて「イヤ僕のは良くはならないのです。現状でいけば上々です。」と笑って応じたものである。このやりとりは何回も時を変えて繰り返したから、彼の覚悟の程と、それに対する諦念の強さは私には十分わかった。これは誰にも出来る芸当ではない。私は今も信じているが、藍澤さんは、病いは持っていたが病気ではなかった。少なくとも病人の悲しみを他に嘆く弱虫でなかった、という思いが新たである。
 もう一つの因縁話をすれば、彼の兄貴(陽一)とも私は同じ学校に務めていて、気が置けないつき合いを何年かした。した、と過去形で述べるのは、実はその兄貴も早く高いしたからである。世田谷代々幡の葬儀場で、まだまだ春秋に富み活気あった友人を失った淋しさと空虚を味わったから、その分だけは取り戻すよう、今度は弟の藍澤さんとゆっくり交誼を願いたかったのだが・・・。しかし良き友はたちまちに去ってゆく、この不条理は私の勝手な願いを超えるものがある。兄弟の二人して私に「人生の無常迅速」を教えてくれたことを、私は果たして感謝するべきか。

「藍澤先生と野球」
   芦刈 孝(元教頭)

 故藍澤満先生のご霊前に弔意を捧げます。
 先生とは4年間、同じ部屋で勤務しましたが、個人的には深いお付き合いはありませんでした。今にして思えば、残念です。
 しかし、先生のお名前を耳にしたり、また、夏の高校野球の選抜シーズンになりますと、先生のお顔が目に浮かんでまいります。それというのも、私の小山台高校在職中、先生は小山台高校の野球部の顧問(職名は部長でしたが)をされ、熱心にご指導をしてただいたからです。
 古い話で恐縮ですが、校舎改築前の校庭で、野球の練習をしておりますと、打球が柵を超え、隣の病院の病室に飛び込んだり、また、通行人の頭上に落ちることも皆無ではありませんでした。その度ごとに、お詫びに行かれる切ない思いがあったと思われますが、そのことで一度も愚痴を言ったことはありませんでした。酒を飲んで憂さをはらす私には、真似のできないことでした。
 先生は、常に明るく、かつ、礼儀の正しい教師でした。大変失礼とは思いますが、笑った折の光る金歯も印象的でした。
 先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

「藍澤学年とともに三年間」
   篠田 貞三(元教頭)

 伝統校の小山台高では、学年主任の名字を冠にしてその学年を愛称のように呼びならしている。学年に固有名詞のついた呼称に、わたしは都立千歳高教頭から異動した当初、少々とまどいを感じた。しかし、この呼び名の方が愛着と責任感がいっそう強まるように思われるし、印象派鮮明でなつかしくよみがえってくる。
 新年度の校務分掌をどのように決めるかは、年度末の大仕事の一つであり、学校の命運を方向づける重大要素となる。小山台高で苦心を図った中の一つとして、ことさ思い出深いものがある。藍澤学年の構成は、幸いにも赴任直前に確定していた。しかしこの藍澤学年の3年間と、わたしの小山台高教頭3年間在職とは、ぴったり重なりあっている。
 昭和59年度の入学式は、杉野講堂で厳粛に挙行された、保健体育の阿部修二教諭が独特の声で司会して、教頭のわたしが「閉会の辞」を述べ、校長からの入学許可が始まる。その前に入学許可者の呼名があり、A組から順に一人一人の新入生の名を読みあげる。
 冒頭の一組はたいてい学年主任が当たり、この年度のA組担任は当然、藍澤先生である。さわやかな声で、熟達した先生は新入生の名を呼びあげた。
 そして、各組の先生がそれに続いた。式辞では、下河原五郎校長の熱意のこもった教育の指針が示され感銘深いもので、名式辞である。
 高校生にとっては、授業のほかに学校行事がことのほか思い出の種となる。小山台高は生徒に充実感を持たせようと、学校行事も盛りたくさんにとりあげて展開する。創立以来の校舎の全面改築で中断していた、名物の運動会をどうするか、職員あげて甲論乙駁の末、ようやく復活した経緯がある。ところで、生徒たちにとってもっとも楽しいのは修学旅行ではなかろうか。伝統に輝く小山台高では、2学年のときにオーソドックスな形で日本の古都奈良・京都へ出向く。今迄の知識を整理し、自らの目と足で日本の伝統と文化をじかに体験する文字通りの修学旅行である。生徒たちは教師の期待にそむかず、よく見学し充実した生活を体験した。手許にある「修学旅行文集」をひもとくと、思い出が倍増されあの頃の生徒の顔々と引率教師の苦労の姿がありありと浮かんでくる。特に端正で実直な藍澤先生は、学年主任として人一倍腐心され、苦労のあとがにじみ出ていたなどなどある・・・。
 先生は不帰の人となりまったく愛惜に耐えない。心よりご冥福を祈りたい。合掌

「高校時代の藍澤先生」
   高村 元継(元国語科)

 親しくさせて頂いている一人に、九段高校のKさんがいる。前前任校時代からの付合いだ。ある時Kさんから「小山台に、藍澤という英語の先生がおられるでしょう。」と尋ねられた。以下は、そのKさんから伺ったところである。
 藍澤先生は新潟の柏崎高校のご出身の由である。3年生の時に、新卒のKさんが英語の教師として赴任された。しかしKさんと学年も教室もちがっていた。模擬試験は出題も採点も科を挙げて協力し、行われる。藍澤先生のお顔は、Kさんにまだ知られてないながらも、特に英語については学年の首位を争っていた生徒であるという強い印象から藍澤姓を記憶して頂けたのだろう。生徒たちは落ち着いてよく勉強し、分別を持って律していたという。質朴で、寒い折にも素足のまま高下駄を、カランコロンと音高らかに響かせて通っていたそうである。
 ロードレースのあった日の午後、拙宅に来て頂いたことがある。先生との一献は楽しい思い出であったのに、先生の訃報は悲しく痛かった。今しみじみと「棺を蓋いて事定まる」という昔の人の言葉を思い、改めて先生の立派な人柄に打たれている。それにしても、どうして先生が若くいらっしゃって天に召されたのか。天の采配は公平であると思ったのに、そんなことがあっていいものか。

「藍澤先生と一緒の学年を持って」
   柳原 博(元国語科)

 十年一昔と申しますが、先生とのおつきあいが、その位の歳月が経っておりますので、記憶違いがあるかもしれません。たしか、小生が学年主任で、先生は最後3Eの担任(生徒の中からはドイツで活躍のピアニスト松下佳代子嬢などが出ておりますし、テレビ朝日の朝岡聡アナも同じ学年です。)として活躍、合唱コンクールなどで優勝したクラスの担任でした。
 進学盛んな時で、実に誠実、熱心に英語教育に精進された姿を想いうかべております。岡先生と御一緒で、毎日といってよい位、プリントの洪水、生徒の中には悲鳴をあげたものもおりましたが、たしかその折、東大へ5人、翌年一浪して5人、計10人入ったと覚えております。
 先日、ドイツ在住の松下嬢より担任だった藍澤先生に私の姿をお目にかけ、レコードを聴いて頂きたかったと、私淑していた文面を拝見、感激しました。誠実、熱心の語は、先生のためにある言葉ともいえましょう。今はただ御冥福を祈るのみです。
 小生は目下、予備校の講師として勤務、旧職員の一人として、先生の一端を記しました。

「藍澤先生のこと」
   野沢 穣(元国語科)

 「はじめまして。よろしくお願いします。小山台にはもう一人、アイザワ先生という方が見えるんです。で、済みませんが、先生をランザワ先生と呼ばせてください。いいですか」。これが、先生に最初にお会いした時の私のお願いでした。当時、私は時間割を作る係で、先生方の出張や欠勤があると、当日の時間割を一部変更し、それを生徒に知らせる必要があったのです。アイザワ先生が二人では生徒が人違えするかもしれないと思って、そうお願いしたのです。とはいえ、人の名前をかえてお呼びするわけですから、ぶしつけもよいところ。でも、先生はにっこりと笑って、「どうぞ、大変ですね」と即座にお許し下さいました。これが先生の温顔にふれた最初です。
 その後、先生が野球班の顧問をなさっていらっしゃった頃、甲子園大会を目指す東京大会で小山台が好調に幾つも勝ち進んだことがあったように思います。そんなある朝、「先生、好調じゃない。小山台も昔、決勝まで進んで、慶応とやったことがあるんですよ。甲子園へ早く行ってよ。応援に行くから」と申し上げました。先生はうれしそうににっこりお笑いになって「うーん、もう少し時間がかかるなあ」とおっしゃっていました。その時の、にこやかな、でも、ちょっと困ったような笑顔が今でも目に浮かびます。
 学年が終わった3月、学年旅行でご一緒したことがありました。行先は清水・静岡。まずは静岡駅で降り、昼食に「うなぎ」を食べました。その店は大ぶりな「うなぎ」を出すことで知られていた店ですが、教員一同、果敢に挑戦、店を出た藍澤先生は微笑んで、「大きいですねえ、堪能したなあ、今度は家族で来ようかなあ」。
 藍澤先生と聞くと、私の胸には先生のにこやかな温顔が浮かんできます。ご冥福を心からお祈りしています。


「藍澤先生の思い出」
   田村 達之(元国語科)

 藍澤先生とは、都立小山台高校で薬10年間、ご一緒に仕事をしました。同じ学年の担任となったので、先生と話したり、行動したりする機会が多く、先生の思い出も数々ありますが、今、思い出すままに、いくつか書くことにします。
 藍澤先生は、生徒への愛情にあふれた先生で、クラス経営、英語の学習指導、野球部の指導など熱心に取り組まれました。
 確か、昭和52年度のことだと思いますが、先生の3年E組が合唱コンクールで優勝したとき、とてもうれしそうでした。また、先生はクラスの生徒の一人一人に親身になって進学の相談などを行っていました。
 英語の学習指導は厳しかったようですが、生徒は先生に絶大な信頼を寄せていました。先生の「授業をしっかりやればどこの大学の試験でも絶対大丈夫だ」という確信あるいは気迫が伝わったのでしょう。
 また、藍澤先生は自己に厳しく、責任感が強く、仕事をきちんと行う方でした。先生は、校務分掌で教務部に所属されていました。毎年、春には高校入学選抜の仕事を教務部が中心になって行うのですが、その仕事は細かい点まで注意しなければならず、とても神経を使う仕事なのですが、それを先生が中心になって行っていたお姿が今でも目に浮かびます。
 藍澤先生は私の碁敵です。正確に言うと、岡野尚起先生と囲碁を教えたのですが、いつの間にか、私より強くなってしまいました。この3名が修学旅行の下見で京都・奈良に行ったのですが、私が行きの車中で「死活」を教え、岡野先生が旅館で「置碁」を教えるという”猛特訓”をしたのです。そのため、その晩、藍澤先生は夢の中でも囲碁をやってうなされたようでした。その後、毎年夏と冬に行われる小山台棋院の囲碁大会では、時々、藍澤先生と対局するのですが、私はほとんど勝てなくなりました。先生の囲碁は大局観がよく、堅実で隙がないのです。
 藍澤先生とは10年程のおつき合いでしたが、その間、先生の怒ったお顔を見たことは一度もありません。先生はいつも穏やかでした。先生は私の尊敬する教師の一人です。先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

「藍澤先生の土産」
   松扉 正彦(国語科)

 もう10年位前のこと、藍澤先生のお供をして修学旅行の実踏に行ったことがあります。あちこち精力的に見て回ったその帰りの京都駅で、先生は、「そうそう、子供のみやげを買わなければ・・・うちはまだ子供が小さいのでね」と、ちょっとテレたようにわらいながらおっしゃって、駅ビルの雑踏に消えて行かれました。
 私は、いわゆる「藍澤学年」の一員として、一緒にたくさんの仕事をさせていただきましたので、思い出すこともたくさんあるはずなのですが、先生の訃報をお聞きした時、まず心に浮かんできたのは、このエピソードでした。いつも進んでいっぱいの仕事を引き受け、バリバリ働いていらっしゃった先生。だからプライベートな素顔を見せてくださることもあまりなく、これだけ印象に残ったのかもしれません。
 その時、先生が何を買われたのか知りません。けれども、周囲の人々のことを--生徒はもちろん、私たち若い教員のことも、そして、あらゆる人々のことを--常に心にかけて下さった先生が、私たちの心に残して下さった「みやげ」が何であるのか、それは誰にとっても明らかなのです。

「藍澤先生の思い出」
   三橋 力(元社会科)

 藍澤先生が逝かれて早1年。今更ながら月日の経過の早さを痛感します。この度の計画まことに結構に存じます。早速と思いながら生来の筆不精のため遅れてしまい、締め切り間近になりあわてて筆を執る次第です。
 藍澤さんとの関わりは二つあります。一つは学年です。私が小山台を辞める前続けて二廻り、計6年間一緒でした。学年での話はほかの人が書いてくれると思いますからそちらに譲って、もう一つの関わりについて書きます。・・・それはクラブ活動で同じ野球部の顧問をやったことです。大分古いことで詳しいことは忘れましたが、たしか初め藍澤さんが顧問をしていて、野球部は大変だから顧問を二人制にすることになり後から私が入りました。そんな訳で正式な規定はなかったものの、何となく藍澤さんが正、私が副という関係が生まれ、それを良いことにして大分藍澤さんにおんぶしていたように思います。大会は勿論のこと、練習試合の折衝・付添に至るまで一人でこなし、余程のことがない限り私の所まで言って来ません。それでは大変だからと言うことで、無理に頼んで試合の付添は交互に行くようにしてもらいました。・・・夏休みの合同合宿で高萩へ行ったことがありました。付いて行けば良いということで普段着でのこのこついて行きましたら、藍澤さんはトレパン姿でかいがいしく働くありさま。私はすることもなくカメラマンよろしく諸君の練習風景を撮影するだけでした。その時アルバムをつくったことを思い出し捜したが見つかりません。十数年も前のこと、沢山の写真の中身は忘れてしまいましたが、一枚だけ私の脳裏にくっきりと焼きつけられて残っているものがあります。それは・・・球場の真ん中でホースを持って水を撒いている藍澤さんの若々しい雄姿です。
藍澤さんの人となりはこの一枚に要約しているように思います。今はただ藍澤さんのご冥福と、ご遺族のみなさんが深い悲しみから立ち上がりお元気を取り戻されることを祈るだけです。

  高萩の 球場におり立ち 今日もまた
        水を撒く姿 尊くもあるか

「藍澤先生とのかかわり」
    佐藤 周藏(元社会科)

 藍澤先生とは、思えば数々のかかわりがあった。藍澤クラスの係として、先生が海外出張の折には急速代行をつとめたり、また修学旅行の係として事前の下見にご一緒したことなども鮮明に思い出される。
 常に、綿密に計画をたてあとは断乎として実行に移す、このようなお人柄は行動を共にした折々に感ずるところであったが、そのたびごとに、あいまいに流されがちな我が身を省みさせられたものである。ダイナミックに仕事に取組み、ゆるがせにしないという姿勢は、生徒諸君に尊い教えとなって残って行くことと思う。
 御本人からであったか、人を介してであったか、お聞きして忘れないことがある。眠られぬ夜のひととき、碁盤を前にして石を並べるとのこと、藍澤先生の強さー特に小生にとってーの秘密を垣間見した思いであったが、別の眼で見れば、種々の思いわずらいに対して気持ちを集中するの場ではなかったのか、と一段と厳かさを感じたりもした。
 それにしても、職半ばにして・・・さぞ無念であったことだろう。ただただ御冥福をお祈りするとしか申し上げられない。
 ご家族の方々が早く立ち直られ、ご遺志を継いで元気に歩んで行かれますように切にお祈り致します。

「藍澤 満 先生 追悼」
    澤井影之助(元社会科)

 都鳥を見ると在原業平を連想するという類いの優雅さとは程遠いので恐縮であるが、風邪をひくと藍澤先生を思い出す。
 昭和48年の春、同音異字の二人のあいざわ先生が同じ英語科に着任された。その時、お二人の希望では、それぞれの名(ファースト・ネーム)で呼んでほしい、という話が伝わってきた。にもかかわらず、われわれ、いや、私などはご当人への直接呼び掛けでない時には、そうざわ(相沢)さん、らんざわ(藍澤)さん、と呼んでいた。そういう呼び方は、ご本人達にとってどうも心外であったらしいが、当方、別段ワル気があったわけではない。名を呼びなんてことは、家族や親せきの中か幼友達の間のことで、成人の暁を過ぎた方に対して用いる言語感覚を持ち合わせていなかっただけであった。しかし、近頃では、ずいぶん歳がいってから知り合った間柄でも、ロン、ヤスとかジョージ、トシキとか、呼び合っているそうであるから、わが方の言語感覚がいかにも遅れていて、さすが英語科の方々は進んでいたのだなあと、いま思い返して感心して、反省している。
 初めから、そんなことで、藍澤さんについては「藍」という字と音とが格別自分の意識に上っていたようである。
 私の住む町の、駅前から続く商店街がはずれに近づいてそろそろ住宅街に移ろうとする辺りに、藍染めの品をあきなう店がある。衣類や帽子・袋物・暖簾・スカーフ・ハンカチなどが並んでいる。たいていは婦人もので、私などが入る向きの店ではない。それに、草木染は色が長持ちるのがいいが、いまは趣味的なものになってしまっていて、化学染料の時代にはお安くなくなっているので、いつもおつき合いしているという仲でもない。
 幼児や散歩で、ときたまここの通りを歩くことがある。静かな店内にはいつもお年寄り(私よりも、である)の夫人が座っているのがガラス越しに見える。ある時、この店の前でちょっと立ち止まって、ショーウィンドの中の品を眺めていると、そのお年寄りが内から、どうぞお入りになってご覧下さいというので、照明があかあかとはついていない店の中に入ってみた。「染の工房は栃木県足利にあって、そこで染めた布地で作った品をここに出しているのです」という。店内にはネクタイや名刺入れなど男物もあったが、いずれも、すでにリタイヤした我が身にとっては必需品にあらずなどと思っているうちに、古風な花模様を染め抜いた布地で作ったティッシュ入れが目に止まった。前から使ってきたティッシュ入れも大分くたびれてきているので、この際交代させてやろうと思いついて買い求めた。以来、内ポケットに収まっていて時々の出番を待っている。
 去年秋、藍澤さんの訃報に接した。お通夜の焼香を待つ間に、同じく焼香に並ぶ小山台生の長い列の側の宵闇の中で、街灯の光を頼りに、藍染めの花模様のティッシュ入れを取り出して眺めた。以来、その藍染めティッシュ入れを手にするたびに藍澤さんのことを思い出す。ふだんは懐中のティッシュを使うことはあまりないが、風邪をひくと、結構出し入れすることになる。自慢することではないが、たいてい年に2・3度以上は風邪をひく。よって、風邪をひくと、藍澤さんの面影が浮かぶ。もちろん、風邪をひいた時しか思い出さないわけではない。私だって風邪をひいていない時にもティッシュを使うことはある。だから、正確にいえば、四季を通して、たびたび藍澤さんのことを思い出すということになる。
 小山台高校で、藍澤さんと私との在任期間が重なり合った歳月を数えると、昭和58年秋までで10年近くになる。この間、学年関係では学級担任として同じ学年に属したことはなくて過ぎたが、互いに相手が担任の時、学年係として同学年に属したことは三たびあった。また部関係、とくに教務部では浅からぬ縁を得た。互いに部への出入りはあったが、私が教務部に属した計6.7年のうち、後の方の3年間は連年仕事を共にした。
 藍澤さんの部や学年内での仕事ぶりは、周到な準備をもって綿密な計画を立て、それを着実に推進するという頼もしいものであった。さらに、事後にも結果を整理して始末をきちんとして後々に備えることも怠らなかった。誠実さと共に有能で豊かな資質を備えており、事を任せて安心していられる人であった。そういう人が側にいてくれたお陰で、私などは、どうにか過誤露顕率があまり高くならずに、日々過ごせたわけである。
 生徒指導の面でも、藍澤さんは実に熱心で、生徒のためになると考えたことは労を惜しまず力を尽くして、まことに親切であった。学習指導では、生徒をしっかり学習に立ち向かわせておのおの学力を伸ばしてゆくよう心掛けて、その点つねづね厳しさを保持しておられた。まことに、藍の染め色は、甘い色合いとは別の、深い色調をもつものだと感じていた。そしてまた、部活動の方では、野球部や卓球部の顧問に任じ、自らもスポーツに親しむ元気、闊達な先生であった。
 教育者として、どの領域・分野においても優れた資質を備えていた藍澤先生が、その働き盛りに、不帰の客となられたことは、惜しみてもなお余りある。ご本人の残念、ご家族のお悲しみはいかばかりと、お悔やみ申し上げるとともに、心から、ご冥福をお祈り申し上げる。
 小山台高校は、藍澤先生の着任以後にも、現職では、さきに理科の水越虔二先生と事務室の山本瑛子さんを失った。山本さんについては、ここで申し及びべき折ではないので措くが、藍澤さんも、水越さんも、ともに、これからいよいよ円熟・大成して、本校のみならず、広く教育界において指導的な活躍を遂げて輝いたであろう人であって、その壮年期に世を去られたことは、まことに愛惜の念に耐えない。小山台高校の経た月日も、やがて70年に及ぼうとしている。ほぼ人の一生に当たる長さである。その間、数多くの卒業生の青春の思い出を刻みながらも、その青春の入口に足をかけたばかりで夭折した生徒や、壮齢にして逝った有為の教師の思い出をも、あわせて埋め込ませなければ、それらの歳月は過ぎ去り得なかったのであろうか。

 藍よりも 青く青より 愛深し 去にし名残の 藍染めの花
(ちなみに、藍は、秋に、薄紅色の小花を穂状につける。)


 今秋、所用で久びさに小山台高校を訪れた。校舎改築の際に新たに植えられた木々も、すっかり根づき、古くからある樹木に交じって、あるいは緑濃く、あるいは紅葉し、黄葉していた。ちょうど授業中で、グラウンドに出る体育の授業がない時の校庭はおだやかであった。門から玄関に向かう道路に沿って並ぶ珊瑚樹には赤い実がなって、秋の日が静かに謝していた。私にとっても、過去23年余り通った学校に久しぶりに入る時は、一種の感慨を禁じ得ない。この日、私は風邪をひいていなかったが、ここに佇んで仰ぎ見れば、過ぎた日々のこと、人の面影が浮かんでくる。

 さんごじゅの 赤き実むすび 陽射しにも 君は歩まず 雲のながるる

「読みは深く、人には暖かく」
    宇野順之助(社会科)

 藍澤先生との付き合いは昭和48年(1973)以来だから相当長い。遠慮がちだが、さわやかで、なんでも相談でき、また、それに応えてくれる人であった。

 <思い出 その1>
 私が生徒部長であった頃、夏のクラブ合宿が栃木県今市市の公共施設を借りて行われた。そのとき先生は野球班の顧問として指導にあたっておられた。
 朝の集会に遅れて来た小山台生がスリッパのまま運動場に出てきたので、集会を指導していたその施設の職員にひどく叱られた。その生徒は指導者に口答えをしたため、その職員は怒って、小山台生全員に合宿をやめて帰れと命じた。
 引率のわれわれ教師も強引な指導だと思ったが、生徒の態度がよくなかったこと、施設を借りている関係もあり、生徒に生徒に謝罪させ、何とか合宿を続けることになった。
 藍澤先生はその生徒を呼び、膝つき合わせて、長い間話しておられた。なぜ叱られたのかを理解させようと、こんこんと、しかも物静かに指導していた。物事に正面から取り組んでおられた先生の後姿が薄暗い電灯の下で、印象的であった。
 <思い出 その2>
 昭和54年、2年生の修学旅行の指導を先生とご一緒に担当したことがあった。先生が生徒の旅行委員会指導、私がコース内容指導で、4月以降、11月の実施とその後の指導にあたった。こんな場合、連絡不十分なことや物事の決定が遅れることも多いのが普通といってもよい。
 藍澤先生の生徒指導は徹底しており、また、会議や指導のあった翌日は、きちんと整理していただいた。指導の中心に立つ人のことを考慮し、やりやすいようにし条件を整えてくれた。
 先生と仕事をするときは、いつも安心して、また、大胆に進めることができた。頼りがいのある人であった。
 <思い出 その3>
 私は囲碁が大好きだが、先生も熱を入れて碁学をやっておられた。上手(いわて)が下手(したて)とやるときは、下手に石を前もって幾つも置かせて始まる。だから上手は下手の失敗を待ったり、自分の都合の悪いところも、手を抜いて別のところを打ち、曲面を有利に展開しようとする。
 だから上手は無理な打ち方をしている。碁では無理は通らない。こんなところは気がつくまいと思っていると、先生は長く深く考え、その弱点をついてくる。先生が沈黙して考えているとき、こちらに悪いところがあるなと、やっぱりちゃんと手を打っておけばよかったなどと反省させられ、人生も同じだと感じさせられたことが何度もあった。
 碁の打方は、その人の性格・態度をよく現わすという。先生は現実の日常生活面では、細かい事に気づいていても、あまりはっきりと言うタイプの人ではない。しかし、何もかもご存知の上で、対処している。相手が相談すれば、なんでも応えてくれる。この相手に対する深い思いやりが、何とも奥ゆかしく、人間的な、時には人間以上のもののもつ暖かさを感じさせてくれる人であった。
 まことに残念な人をなくしたものである。心からのご冥福と、ご家族皆様のご多幸をお祈りいたしたいと存じます。

「同じバスに乗って」
  安盛 義高(元社会科)

 藍澤先生とは、長いお付き合いであった。私が小山台高校に赴任した昭和47年の一年後に着任され、私が離任する平成2年まで、17年間ご一緒させていただいた。小山台高校に在籍していた年数が長いというだけでなく、朝から夜まで実によく行動を共にしたおのである。というのは、藍澤先生が着任後しばらくして現在の下馬に引っ越されてからは、往き帰りが同じ路線バスだった。朝に一緒になるばかりでなく、帰りも同乗したり、飲んだりして最終バスが行ってしまった後などは、よく二人でタクシーに乗って帰ったものだ。小山台時代のほとんどを藍澤先生とともに過ごしたといってもよいだろう。
 藍澤先生は温厚で、思慮深く、実にねばり強い人であった。まわりに気を配りながら、ていねいに物事を仕上げていくそのやり方は囲碁の打ち方によく出ていた。藍澤先生は実によく考え、一手一手を押し進めていく感じで、思いついただけで打つ私などは途中で事の重大性に気づいたときはすでに手遅れで、何回となく惜しい思いをさせられたものである。夜就寝時に天井を見ていると、その日打った碁盤の意思が重なり見え、その時の手順を反復していたという話を聞いたことがあるが、探求心とともに負けず嫌いの面もあったのかもしれない。
 同じ教務で仕事をしていたとき、時間割の作成を手伝ってもらったことがあった。もう2、3日で始業式だというのに、どうしても3年の一コマがうまく入らない。何人かで夜遅くまであれこれ考えたが、どうしてもうまくいかない。私は半ばあきらめて、投げ出したくなったが、藍澤先生は一晩考え、三十数個のコマを動かし、みごとに入れてしまったのである。全く神業というほかなく、その根気強さには本当に敬服してしまった。
 運動会の当日、グランド整備のため砂場で黙々と砂を掘り、その穴で身体が隠れるほどになった光景は今も脳裏から離れない。
 また、要所を読むのを手伝ってもらった際には、原文をコピーして家に持ち帰り、調べてきては教えていただくという熱の入れようで、まったく恐縮の至りであった。この熱意は生徒を指導する際の先生の姿で、その真摯な姿勢に打たれて、英語の学習に意欲を持つ生徒が増えたと聞いている。 藍澤先生にはいろいろ助けられたが、私が心苦しく思っていることの一つは、昭和59年度の開始直前に、急に学年主任をお願いしなければならなくなったことである。その年の新一年主任は最初私が予定されていたのだが、都研への研修が決まり、後任が藍澤先生となった。突然のことであり、さぞかし面喰われたことだろう。にもかかわらず、文句らしいことは一切言わず、学年の先生方の協力を得て、その重責をみごとに果たされた。その学年は学級増で、9クラスの学年主任としてその苦労は並大抵でなかったにちがいない。このことが先生の発病に関係しているかも知れないと思うとき、胸の痛みを覚えずにはいられないのである。
 藍澤先生はいつも穏やかで、怒った顔も見せたことがない。生徒に対しても、いつも誠実に、生徒の気持ちを受け入れて、相手に分かるように話されていた。でも、一度だけ先生が本気で相手を怒鳴りつけたときがある。それは運動会当日のことで、午後の演技中のことだったと思うが、けんかをしているという情報が入り、現場に駆けつけたところ、外部の若者同士が殴る蹴るの乱闘であった。私は一瞬怯んだが、藍澤先生は中に割って入り、「やめろ! どうしてもやるなら外でやれ」と一喝したのであった。彼らは先生の気勢に押され退散したのだけれども、藍澤先生の勇気と真の強さに感服させられた。私はその後このような場面に出合うたびに、その時の藍澤先生の気迫と信念に満ちた顔を思い出し、勇気づけられるのである。
 藍澤先生は奥さんやお子さんに対し、いつも深い思いやりの気持ちを持ち続けられていたと思う。普段はあまり口に出されなかったが、夏休みなどの前には、よくお子さんと遊びに行く話をされていた。奥さんと海外旅行に出かけられる話を楽しそうになさっていたのに、それが実現する直前に亡くなられてしまったことは返すがえすも無念としかいいようがない。
 信頼し、敬愛してやまない藍澤先生とかくも早く別れなければならない不条理に対して、その憤りをどこに持っていったらよいかわからない私である。合掌。

「藍澤先生を偲んで」
   横山 正(社会科)

 実直な先生でした。藍澤先生のことを思い出しますと、真っ先にそのことが浮かんできます。藍澤先生と初めてお会いしたのは、先生が1年生の学年主任の時でした。転勤したばかりで様子がわからずにいた私に、印刷機械の扱い方を教えてくださったのが先生でした。
 先生とはよく飲みにも行きました。飲むと、ご家庭のことや郷里のことを話してくださいました。外国の話、英語の話もよくうかがいました。酔ったいきおいで、学校のありかた、教員のあるべき姿などについて若い私が議論をぶつけますと、ご自分の考えを静かに話される先生でした。性急に結論を出そうとする私を、おだやかに、諭してくださったことも度々ありました。若い者の仕事をよく見ていてくださる先生でもありました。先生には、どんなに励まされたか知りません。
 藍澤学年の3年次に私は学年係りをやっておりました。先生のクラスの副担任もしていたように思います。ある時、なにがしか学年の仕事をしまして、先生に喜んで頂いたことがあります。その日の夜、もう一軒と言って二人だけで、はしごをしました。先生はもうかなり酔っておられて飲めなかったのですが、私の仕事を褒めてくださるために、わざわざ誘ってくださったのでした。思いやりのある先生でした。
 進路部で推薦入試の面接指導をしていた時のことです。熱心に、何度もくりかえし生徒を指導されておりました。今日はもうこれくらいでやめませんか、と私が言いますと、そうだねと言って生徒たちを返したのですが、先生は何やらメモを書いておられます。メガネをはずし、机に顔を近づけて、書き続けておられます。無遠慮にのぞき込みますと、それは生徒一人一人にどんな指導をしたのかの記録でした。少し照れながら、来年、面接指導をする人の役に立つだろうと思ってね、とおっしゃられました。11月のことで、まだ暖房の入っていない進路室は寒く、窓の外は真っ暗になっていました。
 細かい配慮をなさる先生でした。毎日放課後、ご自分の学年の教室をまわられ、窓しめをなさっている先生の姿も忘れません。
 一度だけ病院にうかがったことがありました。カーテン越しに長々としゃべりました。北陸の蟹の話しになりまして、元気になったらぜひ、蟹で一杯やりましょうといって別れたのが、最後になりました。
 先生がお亡くなりになって1か月もたたない内に、私はヨーロッパへ出かけました。カバンの中には、日本の教育事情を説明する英文のハンドブックを入れて行きました。その本は、少し古くなっていて、現状に合わない記述もありました。でもそれは、かつて藍澤先生がヨーロッパへ行かれた時に持参されたハンドブックでした。たまたま英語科に残っておりましたので、お借りして持って行ったのです。
 この文を書きながら、いろんなことが思い起こされてきて、何度も筆を止めました。おそらく、藍澤先生を知っておられる方はみんな同じ思いではないでしょうか。心よりご冥福をお祈りいたします。

「藍澤先生の”間”」
   今泉 博(元社会科)

 藍澤先生のことと言うと、私は何故か先生の独特の”間”を思い出してしまう。私にとっては、何とも言えず心地よい”藍澤スタイル”であった。これはほかの先生方も感じていらっしゃったかもしれない。「私にとっては、何とも言えず心地よい」と述べたが、藍澤先生にとっては、おそらく迷惑な事であったかもしれない。「おや、またここで、”阿保な今泉君”に出会ってしまいましたね。」と、言ったようなお気持ちが多々あったであろうと推測します。また私などは、先生の「おや何ですか。」といったような顔の表情に吸い込まれ、気軽に話しかけてしまうことの繰り返しでした。
 小山台時代の藍澤先生との関わりと言えば、先生が卒業生を送り出した翌年の第3学年および進路係でと、その次の生徒部で一緒に仕事をし、直接・間接にいろいろ指導していただきました。そこで私が学んだことがあるとすれば、一つの物事を考える。或いは、決定し行動する場合、対象の事柄をあらゆる角度から検討し、そのうえで行動に移す、といった点だろうと思います。また、こうした学年会や部会の際、藍澤先生が沈黙していると、まさに”沈黙は金”といった様子でした。(この点は、私などには当分の間、あるいは永遠に学ぼうにも学びとれないことかもしれません。)巧まずして生ずる”存在感”でした。
 なお、第3学年のとき、私がクラスの或る生徒のことでクリニックの先生に会いに行かなければならなかった際、他の先生方の都合上、副担でもなかった藍澤先生に同行していただきました。そうした際、一人の人間の受けとめ方だと偏った捉え方になったり、見落とす点が出てくるといけないとの判断からでした。非常に勉強になったし、心強く思われ、今でも感謝している出来事です。
 一方、藍澤先生との関わりで思い出すのは、所属学年や部が異なっていたときでも、ほぼ月に2回の水曜日の会議後のお酒のある場所でのことです。こうした席でも、先生のペースは変わらなかったなあ、と思い出します。私はこうした席では必ず1時間~1時間半ぐらいたつと一旦皆さんの会話から脱落しますので、もしかするとそうしたとき一度くらいは普段と異なる藍澤先生の姿があったかもしれません。(でも99%、想像できませんね。)
 まとまりのない話になりましたが、また何か困ったとき、「おや、どうしましたか」、という藍澤先生に語りかけることがあるかもしれません。

「藍澤先生の思い出」
  飯山 昌幸(社会化)

 藍澤先生に初めてお目にかかったのは、8年前(1984年)の春4月、新学期の担任として参加した学年会の場でした。それから3年間は、同じ学年でいろいろとお世話いただきました。
 たとえば、修学旅行の準備に取り組んでいた時など、学年主任であった藍澤先生には数々のお願いをしましたが、正確に処理していただいただけでなく、私の目の届かないことまで裏でカバーしていただきました。細かい提出書類などはすべて書いていただいたようです。ともかく、めんどうみの良い学年主任でした。
 まためんどうみの良さは、我々学年団に対してだけではなく、生徒についても同様でした。
 この学年で、1年次に藍澤先生が担任され、2,3年と私のクラスになった生徒が卒業後こんなことを言いました。「先生はほったらかしだな。藍澤先生だったら、すぐに電話がかかってきたものなあ。」と「ほったらかしだった」というせりふは担任としては納得がいきませんでしたが、「藍澤先生だったら」というくだりは、ありえることだと思ったものでした。
 このように、藍澤先生は信頼のおける、かつ頼りになる先生でした。そして、今まで私が知り合った先生方の中で手本としたいと思った数少ない先輩のひとりです。藍澤先生は残念ながら高いされてしまいましたが、その人柄は私も含めて多く人々の思い出の中に生きていると思っています。

「らんざわ先生を思う」
   奥野 一雄(元数学科)

 藍澤先生は大変もの静かなきちんとされた方でした。当時同じ室に相沢先生がおられお名前の音が同じなので「らんざわさん」「そうざわさん」と及びするようになりました。このことは失礼なようですがかえって親しみを感ずるように思えます。先生はいつもご自分の席に静かに座られてお仕事をしておられるのが印象的です。私が時々声をおかけすると、びっくりされたように私の顔を見られ「やあ」とか云われて立ち上がられにこにこして雑談したことを思い出します。私は先生と3年間先生のお持ちになった学年の係をしておりました。先生は学年主任として大変ご苦労をなさったことと思いますが、私などは枯れ木も山の賑わい位の方で楽をさせて戴き申し訳けなく思っております。その後先生にはご病気になられお亡くなりなられた事は痛恨の至りで本当にお気の毒な事でした。平素は明るくお元気だったのにと思うと胸がつまります。いまでも学校へ行けば先生がいつもの室のお机の前におられ静かにお仕事をしているお姿が目に見えるようです。先生が亡くなられたとはどうしても思われません。先生は今も元気で生きておられます。

「藍澤先生の思い出」
   若林 明弘(元数学科)

 藍澤先生とは、21年間小山台に勤めた私の後半の9年間を、同じ学年にいました。英語と数学で強化は異なっていたのですが、ともに新潟出身ということもあり、年齢は、私の方が7つほど上だったのに、考え方に違和感が無い人だと感じていました。私は小山台を去って8年になるところですが、今も頭の片隅に残っている藍澤先生に関する記憶、思い出のいくつかを述べたいと思います。
 ア 先生は、大変家族を泰西つにする方で、私と2人だけで、お酒を飲むようなことは、めったになかったのですが、或る日、2人だけで飲んでいて、しみじみと「いつまでも、健康で居られるとは限らないから、家のこと等で、借金して改築したりすることは、できないんだなあ。」と言っていた。私なんか、家のことなど、不動産のことは借金なしでは、出来ないものと思っていたので、40歳をちょっと出たき盛りの年齢で亡くしたことが尾を引いているのかなと思ったけど、石橋をたたいて渡る先生の姿勢に感心したものです。その頃の先生は、どこから見ても、健康そのものでしたから。
 イ 野球の顧問として、学級担任、英語の指導、教務の仕事で超多忙なのに、熱心に練習を見守っていた姿が目に浮かびます。練習試合で、2塁から3塁へ、自校選手が、凡打を生かして塁を奪うと、「一つ塁を進めることは大変なことなんだ。」と興奮した声で、私に説明して呉れた。先生の素人の域を出た野球眼、そして、何事にも、時間、労力を惜しまず注ぎ込む情熱に感服しました。何事にも、誠心誠意ぶつかっていく先生で、手を抜いてやった事柄を、私は思い出すことができません。
 ウ 卒業生数人が、拙宅にやってきて、酒の席になっていたとき、藍澤先生のことで話に花が咲いたのです。一人が「藍澤先生は、突然トーンが高くなるんだよナ。」と授業などでの話しっぷりが語っていましたが、その時の熱っぽい表情、愛らしい表情が目に浮かびます。
 エ 旧校舎の頃、プールに、冬を迎えるにあたり、鯉を入れた年がありました。多分、小山台では、最初にして最後のことではなかったかと思います。春になったある日曜日、プールを掃除する前に、釣りを教職員で楽しんだ。その日、先生は息子さんと、甥(亡兄の子供)を連れてきました。この日は、あいにく寒くて、鯉が餌に喰いついてくれず、ほとんど釣れなかったのです。一人また一人と人が居なくなる中で、最後、数人しか残らなくなるまで、一生懸命、寒い中を糸を垂れていた姿と、2,3匹しか釣れなかった鯉を、大切に持ち帰っていく先生・子供の姿が、鮮明に思い出されます。ここでも、何事にも、真剣に、一生懸命やる先生の姿勢を見ることができました。
 藍澤先生の遺族の皆さん、先生は、私達凡人の二倍、三倍の情熱を燃やして、日々生きていたんだと思うのです。それで、先生とめぐり合わせた人々に、強いimpactを与えたのです。ですから凡人が80歳まで生きて他の人に残すこと以上のものを、もうすでに、残し与えて呉れたのだと思います。とは言っても、家族を、あれだけ大切にしていた先生ですから、遺族の皆さんにとっては、「今、居てほしい。」という思いが、いつもなのではないかと思います。でも、あの葬儀に参列した多くの人々が、きっと、皆さんを見つめて呉れていると思います。頑張って精一杯生きてください。そうではないと満先生だけでなく、あの時の多くの人々も、口惜しがります。満先生の家族一人一人への激励は、それこそ、永遠に不滅です。頑張って、一人一人が素敵な人間に成長してもらいたいと願っています。

「学校祭のこと」
   竹内 淳博

 藍澤先生には、公私にわたって、沢山のことを教えていただきました。
 私が小山台高校の学校祭委員長をしていたとき、先生には、寒菊祭の方をお願いして、色々と助けていただきました。
 先生は、学校祭実行委員の生徒の気持ちをしっかりとつかみ、適切な指導をしていただきました。教科指導のお忙しい中で、寒菊祭の立案・計画・実施と、労を惜しまず、真摯な姿で一生懸命に指導に当たっていただいたことが、生徒達の心をつかみ、まとまっていった事と思います。
 早め早めの準備を常に心がけ、実行していただき、私など気が付かない細かなところまで気配りをしていただき、先生のお人柄の一端を見、私自身、勇気づけられ又励まされて、学校祭が成功したと思っています。
 もう、先生への恩返しができないことが悔やまれてなりません。
 御冥福をお祈り申し上げます。

「藍澤先生を偲んで」
   光山 保士(数学科)

 昭和59年2月のある日、新年度からお世話になる小山台高等学校にご挨拶にはじめて伺ったところ、学校長の下河原先生から着任そうそうになるが、新1年の担任をしてほしい旨の話があり、学年主任は英語科の藍澤先生であること、私より年齢は若いがしっかりした真面目で熱心な先生であることなどの話を伺った。その折、お会いしたのが私と藍澤先生との最初の出会いでした。
 その後の新入生の準備の学年会において、細かい点まで配慮された緻密な計画のもとに周到な準備がなされていく様子に触れることによって、藍澤先生の真似は自分には到底できないと感じたものでした。また、着委任してすぐの不慣れな担任でしたが、学年会の都度大切な事が要領よくメモされた用紙が配られ、それに従っての行事の進行やHRでの伝達等がスムーズに行うことができ、曲がりなりにも担任の仕事が無事務まったものと感謝しています。後に私が学年主任を仰せつかったとき、非常に不安でしたが幸い藍澤学年での藍澤先生のこれらの詳しいメモを頼りに、他の先生方のご協力を得てなんとか責をはたすことができました。
 先生は、生徒の教育指導にはことのほかご熱心であり、全体集会等での講話は分かりやすく理詰めで説得力があり、多くの生徒が啓発されたことと思います。とくに小山台高等学校を愛され、生徒には折にふれ小山台高校生徒しての誇りと自信を持つように話されたのが今でも印象にのこります。生徒が過ちをおかしたときでも、大声で叱責されないで、逆に静かに心を込めて醇々として諭されるので生徒が深く反省をすることになったものと思われます。
 一方、私ども同僚への配慮も深く、皆が気持ちよく仕事ができたのも藍澤先生のお人柄によるところが大でありました。また、先生はご酒がお好きでした。私はあまりいただけないのでお付き合いする機会は少ない方でしたが、お飲みになると陽気で明るく、いろいろな話をお聞きし博学であった先生の一面を知ることにもなりましたが、そのときでもよく教育論議になり真面目であった先生の教育者としての生き方が偲ばれます。
 思いがけない難病にかかられ、これからの小山台高等学校にとって大切な先生を失ったことはかえすがえすも残念なことであり、先生ご自身も心残りであったと思いますが、薫陶を受けた生徒一人一人の中に先生の教えが活かされていくことでしょう。いまはただ深くご冥福をお祈り申し上げるばかりです。

「故 藍澤 満 先生を偲んで」
    芝 茂雄(元理科)

 藍澤先生とは、同じ学年で、ご一緒に仕事をさせて頂いた関係で、思い出されることの殆どは、お仕事を通してのことばかりです。一言で申し上げますと、非常に仕事熱心で、常に同僚の気持ちを察し、生徒のためになることは、本当に骨身を惜しまず面倒を見るタイプでした。その片鱗を思いつくままに認め、先生のお人柄を偲びたいと思います。
 修学旅行のこと・・・
 小山台高校の学校行事は、総て、それはそれは綿密な準備段階を経て実行されていました。従いまして、大きな行事になりますと、それに注がれる先生方のご苦労は大変なものでした。しかも、それには必ず生徒の委員が参加してというよりも、生徒が表面に立って推進していくという方針でしたので、先生方のご苦労は、それらの委員への教育的指導というものが加わります。従って、先生方だけで進めていくよりも数倍の労力が必要でした。生徒も熱心でしたので、夜遅く迄作業が続くことがりました。一般に先生方も、必ずそれらの仕事に付き添って最後まで面倒を見ることになっていました。藍澤先生が、修学旅行の準備の係になられた時、いつも例の微笑を浮かべて、生徒の作業に立ち合われていたご様子が今でも目に浮かびます。
 課題補習のこと・・・
 小山台高校では、殆ど毎日、大学受験生及び教科学習のスローランナーのための課外補習が行われていました。特に大学受験生の補習希望者が非常に多く、その為に、すべての生徒の希望を入れることが出来ませんでした。従って申込当日は朝6時頃に登校して先着を争うことになります。その場合でも、若い先生方は率先して、受付業務を引き受けて下さいました。藍澤先生もそのお一人でした。
 教育研究のこと・・・
 英語科がコンピュータによる個別指導の研究指定校になったときのことです。英語科の先生方は、殆ど毎日、単語の豆テストをなさったりして、非常に忙しい毎日でした。それに加えての研究指定校です。その場合でも、藍澤先生は実践の責任者として、それに当たられ、大変なご苦労をなさったことを覚えています。
 クラブ顧問のこと・・・
 藍澤先生は野球部の顧問をなさっていました。小山台高校の野球部は伝統もあり、成績も都立としては良い方でした。従って、OBも多く、学外の応援者も多数ありました。そのような方達への応対は、殊に勝ち進んだ場合には、気苦労が多かったようでした。然し、先生はどんな場合でも、例の笑顔で対処なさっていました。
 お付き合いのこと・・・
 小山台高校は、学年会議の意向を非常に尊重する学校でした。従って、学年会議は頻繁に行われていました。そして、それが深更に及ぶことも屡々で、その後、夕食を兼ねて雑談することもよくありました。そのような場合、先生は例の笑顔で、楽しくお付き合い頂き、美声の歌などもよく拝聴させてもらったことが思い出されます。

  慎んで哀悼の意を表します。  合掌

「藍澤先生を思う」
   多胡 忠治(元理科)

 藍澤先生が小山台高校に来られた頃、英語科にはほぼ同時期に相沢先生が転任して来られ、私達はそれぞれランザワ先生、ソウザワ先生とお呼びして区別していた。
 私は先生と同一校務分掌になることはなかなかなくて、一緒に仕事をしたのは若林学年が最初であった。先生が担任をされていて、私が学年係として同学年に入った。私が担任のサイクルから、やっと抜けた年である。
 同学年は当時3学年であったので、次の年の4月より先生と新一学年で学年を組むこととなった。増学級の学年で、A組からI組まで9学級で先生がA組の担任、私がI組の担任で、私にとって小山台高校最後の年でもあった。
 先生と密に同じ仕事をしたのは、たった1年であったが、先生の印象は大変強いものがある。
 先生は仕事を進められるのに、大変綿密な検討をされて、なかなか着手されない。私などは軽率にパッと始めてしまうことを、細部に至るまで十分な計画を立てられて、初めて着手されるという大変慎重な方であった。
 私がやきもきするぐらいに十分な思考、念入りな思索をされて仕事に入る。私にはこれが大変、印象強く記憶に残っている。この姿勢は是非自分もと思うのだがなかなか身につかないで現在に至っている。
 大変に惜しい人をなくし誠に残念である。
 先生のご冥福を祈ると共に、ご遺族の方々のこれからのご発展を祈念申し上げる。

「藍澤先生の思い出」
   峰 薫(元理科)

 小山台高校の場合、学年主体でチームを組む関係上、同じ学年団にいないと、しかも、校務分掌も違うと一緒に仕事をする機会は少ない。したがって、藍澤先生と学年を組むまでは、藍澤先生とは、あの大変な野球班の顧問をやっている先生であり、若くして(小山台高校の平均年齢を考えると)、溌剌と学年主任を務めた先生として尊敬していた。
 私の12年間の小山台高校での生活で、最後の3年間、藍澤先生と同じ学年担任団に入る機会を得ることができた。その上、幸福なことに、藍澤先生が副主任でH組、私はその隣のG組を持たせてもらい、学年団は順調にスタートした。しかし、1学期が過ぎた頃、思ってもみなかったことに藍澤先生は病に倒れられ、入院なさってしまい、お会いできなくなってしまった。その後、藍澤先生は入退院を繰り返しながらも、私たちの学年の面倒を献身的に見てくれ、その情熱には胸を打たれた。
 私のクラスに、元藍澤先生のクラスにいた生徒がいて、その生徒が、2年生の途中で小山台高校の生活に、特に勉強に幻滅し、教科の勉強を止めようとし、それを実行したことがあった。担任の私としてはなんとかして2年生は終了という形にさせようと説得していた。多くの教科の勉強を投げ出した彼が、単位をもらえないかもしれない教科の一つに、藍澤先生の英語があった。元担任だけあって、藍澤先生は彼の力と性格を知っていて、彼をなんとか立ち直らせ、学校のレールに乗せようと何度も彼を呼び出して話をしてくれた。彼は面と向かって話をしようとすると、押し黙ってしまい、のれんに腕押しの状態になり、話を聞き出すのが大変なタイプの生徒であった。藍澤先生から聞いたのだが、彼から勉強していくれるという言葉を引き出しては、その約束は何度も裏切られたそうだ。それでも、藍澤先生は彼を見付けては叱ってくれ、最後まで指導してくれたことを思い出します。彼はなんとか3年生になり、悩みながら卒業していきました。私は、御自分自身が辛く切ない毎日を送っていたに違いない藍澤先生が、真面目に情熱的に彼を指導してくださったことが今でも忘れられません。
 一緒に仕事をした機関は短かったけれど、本当に、誠実で熱心という言葉の似合う人だったと思います。私も教職についている人間の一人として、藍澤先生のお持ちになっていた優しさと情熱を忘れることなく、教壇に立ち続けたいと思っています。藍澤先生の御冥福と、ご家族のお幸せをお祈り申し上げます。

「藍澤先生の思い出」
   阿部 修二(元保健体育科)

 印象深く思い出されるのは、やはり運動会に関することです。先生が小山台高校に赴任された年の運動会と記憶しています。小山台高校の運動会は質実剛健と申しましょうか、小雨決行です。体育科の教師は前日学校に宿泊して運動会の当日を迎えるのが慣習でした。その年も前日は転向の心配もなく準備完了し安心して熟睡しました。午前4時に目覚めると、しとしとと雨が降っているのです。早速体育教師全員起床で、雨天時の対策に頭をいためました。決行か延期かの検討をはじめ天気予報をもとに協議の結果、決行ということで準備が始まりました。午前6時には早い先生方は出勤され、生徒も役員は集まり、先ずは校庭の整備です。雨水の除去、砂まきの作業が始まりました。昨日より準備されたトラックのラインなど完成された会場は全面砂まきとなり、総てやり直す作業となり、生徒も教師も一心不乱の大変苦しい作業が続きました。その中で藍澤先生は、砂まきのため砂場の砂を掘る作業を担当してくれました。体育科の教師は運動会の種目に関すること進行状況などに追われて砂まきの件は、総て藍澤先生の仕事となり懸命に努力をしてくれたのです。校庭整備がほぼ完了し、やっと運動会が可能な時点になって砂場に行って驚きました。藍澤先生が見えない位に掘った穴が深くなっているのです。私は我目を疑うほど驚き感心しました。深く頭をさげて感謝すると共に先生の物事に対する熱心さに心をうたれました。運動会は遅れることなく定刻に行われ何事もなく成功裡に終了しました。藍澤先生のご尽力のおかげです。先生の地味で、縁の下の力持ちというか、人のために尽くすという真摯な姿をこれ程実感したことはありません。今でも昨日のように思い出します。このような謙虚に尽力される先生の姿は小山台高校の生徒の心に長く残るものと信じています。

「藍澤先生の思い出」
   松野下 健(保険体育科)

 藍澤先生と十余年間、同じ学校に務めさせていただきました。しかし、先生と私は校務分掌や学年担任を持つサイクルが少しずれており、御一緒させていただいたのは、多くはありません。ろのような状態でしたが、私にとって先生は大変存在の大きい方でした。生徒への的確なお話や、わかりやすい授業(多くの生徒が藍澤先生に教えていただけることを強く望んでいました)、学年主任としての力量、会議における発言など、本当に見事であり、いつの日か私も先生のような教師になれればと考えたものです。先生のひとつひとつの行動、深慮にはいつも生徒への、いや、人間への愛が強くあったからだと今さらながら気が付かされます。
 先生のことを思う時、次のことをよく思い出します。
 私が小山台高校の非常勤講師として勤めさせていただいた頃、つまり昭和52年~53年頃のことであったかと思います。伝統のあの運動会の当日の朝、雨上がりの水びたしのグランドに先生は、ずいぶん早い時間に来られたのを覚えています。先生ご自身でスコップを手に取られ、砂場の砂を多くの生徒が運ぶバケツに一所懸命入れておられました。その姿を見た時、私は小山台高校の運動会は多くの先生方の大変な協力があって成り立っているのだなと感じたわけです。私自身も講師ながら多くのするべきことがあったので、運動会の開会に間に合うよう働いておりました。たくさんの人が力を合わせた甲斐があってか、開会30分程前に見事にグランドが出来上がりました。砂場へ行ってみると、藍澤先生が道具を片付けていたのですが、その砂を運び出した後の大きな穴を見て私は驚きました。幅3メートル×5メートルの大きな穴で、深さは藍澤先生の背丈もあったでしょうか。周りには人が落ちないよう柵さえする程でした。あれだけの短い時間に掘ったとはおよそ信じられない大きな穴でした。すごい先生だなあと思ったのが、昨日のことのように思い出されます。
 また、こんなこともありました。昭和61年に私が担任をしていた2年F組の英語を藍澤先生が受け持って下さいました。このクラスの雰囲気は、各担当の先生から聞くところによると、授業中は静かであるが、白けた感じがしてどうもやりにくい、といった所でした。私自身もどうしたものかなあと気に掛けていたところ、ある日、藍澤先生が私に話しかけてこられました。「2年F組は話もよく聞いているし、授業態度も真剣ですよ。冗談にも良く反応するし、いいクラスですね。」というお話でした。先生にそのように言っていただけ、気持ちが随分明るくなったものです。
 幾度か、お酒を飲みながらお話を伺ったこともあります。ある時には小山台高校の特色豊かな運動会について、この行事を長く続けるための配慮すべきことを語って下さいました。事故防止に関する事など、その時に伺ったことは、その後の運動会を運営するにあたって大変貴重なものでありました。
 藍澤先生は多くのことに実に的確な目を持っておられ、また褒めることが上手だったと思います。おだれるのでなく、良いところは良いと言い、いけないところはいけないという、それだからこそ多くの生徒が先生を慕ってやまなかったのだと思います。
 愛沢山[あい たくさん]と書いて[あいざわさん]と読む、先生のことをそんなふうに考えています。先生に多くのことを教えていただきました。何年経っても先生は、多くの人の心に生き続けていくことと思います。藍澤先生、本当にありがとうございました。

「思いのままに」
    紺野 正紀(保健体育科)

 私が小山台高校に赴任してはや7年になります。この間、藍澤先生とは5年間一緒に働くことができました。学年では一度も一緒にはなれませんでしたが、1年間を生徒部でご一緒できたのはとても嬉しく思っています。思い出を掘り起こしてみると、小山台に赴任した当初は、藍澤先生は、藍澤学年と称する学年主任をされておりました。当初は、全然話などするきっかけもなく、数週間が過ぎたと思います。先生が会議で話をする姿を見ていると、こちらからは近寄りがたいほど、きちんとした態度で、しかも内容は理路整然とされていて、なるほどさすがだなあと感心していしまいました。そんななかで、藍澤先生と話をするきっかけができてのは、私が庶務部に入り、防災訓練の係をしたときのことでした。何も分からずに訓練実施についてのお願いに回り、「このようにしますので、どうしましょうか?」というような感じで聞いたと思います。すると、少し難しそうな顔で、眼鏡をちょっと外し、書類を見て「はい、分かりました。ご苦労様」と一言いわれ、私は「宜しくお願いします。」の言葉を返し英語科を失礼しました。なんとも緊張感を覚えながらの会話で、今思うとおかしくなります。でもその頃は私も一生懸命で、英語科を失礼した後、その「ご苦労様」の言葉が耳に残り、いつの間にか緊張感もほくれたのを覚えています。とてもありがたい言葉でした。その後は、お酒の場や、スポーツ・合宿の場でいろいろと話すことができ、素晴らしい先生に出会えたと喜んでいました。ある時、先生が卓球班の指導を体育館でされているとき、隣で剣道班を私が見、ひょうんことより、先生と卓球の試合をやるはめとなってしまいました。笑いながらラケットをもった先生の顔がなんとも印象的でした。私も少々自信はあったのですが、藍澤先生に完敗しました。それでも、その勝ちを傲らずに謙遜され、その姿には、私も快い先生とのふれあいを感じることができました。話した言葉の数はそれ程多くはなかったと思いますが、一緒にいて過ごすとその存在感と温かい心や思いやりの心がいつの間にか通ってくる先生でした。ですから、生徒も藍澤ファンが多かったと思います。この私もその一人に加わっていました。最後に思い出すことは、生徒部の仕事で玄関に一人立って生徒の無断外出に対して指導されている先生の姿です。人情味ある温かな心で、誰をも大切にしてくれた人間味の中にも、厳しさがあり、一本筋が通っていた藍澤先生・・・その姿を私は一生忘れないと思います。素晴らしい出会いととても辛い別れとなりましたが、私も先生に恥じないような教師を目指して大事にさせてもらいます。先生有難うございました。そして本当にご苦労様でした。まとまりもなく、思いのままに・・・藍澤先生へ。

「藍澤先生の思い出」
   玉川 昌子(旧姓 奈良 元保健体育科)

 藍澤先生とは私が小山台に勤めていた3年間同じ学年で、一緒に仕事をさせていただきました。藍澤先生はこの時、学年主任でありA組の担任でした。そして私はその学年の副担任をしていました。藍澤先生の仕事ぶりは、常に先の見通しがきいていて、そして、下準備が十分になされていました。本来であれば私がしなければならない仕事を、明日やろうなどと思っているうちに、先生がサッとやってしまっているということが何度もありました。ものすごい仕事量だったに違いないのですが、机にかじりついて余裕がないという感じは全くありませんでした。生徒が質問などに行けばそれは丁寧に答えておられました。どいしたらあの様にできるのだろうかとただただ感心しておりました。あれから5年、結婚をして仙台へ移り今は中学校の教員をしております。生徒指導に忙殺される毎日ですが、小山台の時の藍澤先生を目標に頑張っています。

「藍澤さんの思い出」
   土屋 公平(元芸術科)

 夏の合同合宿が山中湖になる前の年、長野県の大町で最初の合同合宿がはじまった。そして、私が顧問をしていたブラバンも、それまでの賀沢の単独合宿から、合同合宿に加わることになった。
 大町の合宿では、たまたま藍澤さんと相部屋になり、5泊6日の期間中、2人だけで寝起きを共にすることになった。
 当時、藍澤さんは、小山台に着任して間もなかったように思う。とにかく、夕食を過ぎると、二人が同じ部屋で雑談をはじめる。5泊も一緒に過ごすと相当いろいろな会話ができるもので、あれやこれやと雑談を交わしているうちに、たまたま身の上話になり、藍澤さんご自身のことについて、かなり詳しく伺い知ることができた。
 もう20年近くも前のことになるので、話の内容については、ほとんど記憶はないが、並々ならぬご苦労をされたということと、藍澤さんの人柄が印象としてm強く焼き付いていたことが思い出される。
 それから十数年、藍澤さんの思いやりが深い人柄に感心してきたが、並々ならぬご苦労をされたという合宿のときの身の上話と思いやりの深い人柄とが、いつも重なり合うように思えてならない。
 藍澤さんは、酒量はそれ程多くはないが、夜のいわゆる赤提灯の付合いも非常によくて、誘えばほとんど断ることなく、気さくに応じて明るく楽しそうに飲んでいたのが思い出される。
 また、数年前から囲碁を始められ、急速に強くなってきたので、囲碁仲間の私としても、上達を大いに期待していた。
 赤提灯や囲碁のことはともかくとして、私より年下ではあっても、藍澤さんからは、人生の貴重なことを学んだように思う。いま、改めて厚く御礼申し上げたい。

「思いだすままに」
   小山 晃三(英語科)

 藍澤さんが小山台に来られたのは昭和48年の4月である。お兄さんも英語の教師だったので存じており、藍澤さんが小山台に来られるに際して多少のかかわりがあった。同じ年に相沢さんも小山台に着任されたので、英語科に同時に二人の「あいざわ」さんが誕生することになった。そこで、お二人を区別するために、だれ言うとなく、「らんざわ」さんと「そうざわ」さんという呼び方がかなり広く使われるようになった。そう言えば、当時「キャンディーズ」がはやっていたと思う。
  * * *
 比較的短い間にその人柄や存在がはっきり分かる人もいれば、その人の真価が長い間かかってだんだんと現れてくる人もいる。藍澤さんは後者のタイプの人だったと思う。小山台に来られて最初の2年間を係で過ごし、3年目に1年の単になって3年後に初めて卒業生を出し、次の年に3年の係となったが、翌年2年の担任となり、そのまま3年に持ち上がって2回目の卒業生を出し、それからは、1・2・3、1・2・3年と連続担任を続け、特にこの最後の3年間は学年主任として卒業生を出したのである。つまり、昭和50年度から61年度の12年間に4回卒業生を出したことになる。しまも、59年度1年の学年主任になったときは、小山台始まって以来最年少の学年主任だったのではなかろうか。
  * * *
 小山台英語科の定期考査は統一問題で行っている。教える教師は複数だから、出題責任者を順番制にして、なるべく不公平のないようにしている。当然相談はするものの、1回1回で考えれば、出題責任者が担当しているクラスがやや有利なことは否めない。これは教師にとってはなかなか辛い面もある。定期考査で自分の担当しているクラスの成績が良ければひと安心し、悪ければ穏やかではない。そこで、ひそかな闘志を燃やす。そして他の人が作成した問題で、自分の担当しているくらすの生成が良いとほっとするのだ。藍澤さんの担当しているクラスが、他の人が作成した問題でよい成績をあげることがよくあった。
  * * *
 藍澤さんが作成しり考査問題は量が多い。これは私の想像だが、考査範囲からこれも出したいあれも出したいと拾いだし、精選はするものの、最終的に多くなってしまったのではなかろうか。採点機関は限られている。藍澤さんはいつもぎりぎりだ。私はよく彼に「また採点を楽しんでいるね」と言ったものだ。藍澤さんの採点は丁寧で、量が多くて時間が無いのに、〇×だけでなく、訂正してやったりコメントを書いてやったりしていた。まさに、採点を楽しんでいたのである。
  * * *
 藍澤さんが学年主任として卒業生を出した翌年度(昭和62年度)は、クラス担任をしない代わりに英語科主任や人事諮問委員をやっていた。ちょうどその年の暮れから正月にかけて私は手術で入院をした。入院中の私の授業の補充計画等を綿密にやってくれたことはもちろんのこと、年が明けたある日ひょうっこり「ちょっとそこまで来たのでね」と病院に寄ってくれたことがあった。そして、学校の様子や、翌年度の人事のことなどを話してくれたことを思い出す。
  * * *
 藍澤さんが必異動で翌年度はどこかに移らなければならない昭和63年度、当時校長の下河原先生が「藍澤さんならきっといいところがあるよ」と言っておられたので、私も安心はしていた。藍澤さんは、今年で最後だからということで、夏には海外研修に出かける予定でいた。たまたま、体調がやや優れず、海外研修のこともあるので病院へ行ったら、海外研修どころではないと言われたのである。藍澤さんが小山台で働き過ぎたのでこのような病気になったのか、小山台が好きで他の学校へ移りたくなくてこのような病気になったのか分からない。「いったい、どっちなの」と藍澤さんに聞けば、にやっと笑って、しばらくたって、こちらが忘れたころになって、「そういえば、さっきの質問だけどね、やっぱり、後者だったのではないですかね」と答えてくれるような気がしてならない。

「藍澤満先生の思い出」
    岡 昌春(元英語科)

 藍澤満先生の御逝去の報に接した時程、蒙霧に包まれ目の前が真っ暗になったことはありません。10年以上も前に、たまたま同じ学年を担当したり、運動会や文化祭等に備えて夜遅くまで準備のため汗を流したりした時の藍澤先生のお元気なお姿しか私の脳裏に残っていなかったからであります。
 藍澤先生には幾つかの思い出がありますが、私にとって忘れることのできないのは、先生の暖かいお人柄と生徒に対する指導のお姿であります。先生は、いつも広い心を持ち、学習指導、生徒指導、進路指導等様々な面で心底から生徒のことを考え、真心を込めて相談に乗り、時間の経つのを気にもとめず、分かるまで、納得ゆくまで語り、教えておられました。先生のそのお姿は、今でも私の胸に深く刻まれています。
生徒一人一人を大切に育み、お導きになられたお姿は例えようもなくすばらしく、私はそのお姿に幾度となく感動し、教師の在るべき姿を肌で納得した思いがしています。先生の訓導は、先生の同僚や先生から教えを受けた沢山の生徒達の心の中に永遠に生き続けることでありましょう。  今はただ、故藍澤満先生のご冥福を祈るばかりでございます。

                 合掌

「藍澤先生のおもいで」
   相沢 健夫(元英語科)

 昨年アイザワ先生の訃報に接したとき何か自分の分身である真面目な弟を失ったような気持ちにおそわれました。これが夫婦ならベターハーフをなくしたときの気持ちなのでしょう。
 教壇に立ってすでに31年になりますが、アイザワという姓の同僚に出会ったのは小山台でランザワ先生にあったのが初めてでした。しまも我々二人は小山台に赴任したのも同時でいわば同期の桜でありました。しまも私が1才かそこら年上ではあっても、藍澤先生の落ち着きと私のそそっかしさのために彼の方がずっと貫禄がありましたし、名前をカタカナ書きされていた当時の給料袋を間違えたらどっちが得をすることになるかなどとよく言い合ったものでした。また大職の、同じ英語科のコーナーに居座っていて、彼の方がハンサムである点を除けば、背丈や体格もほぼ類似していたようで、小山台を混乱させるには十分だったことを思い起こしますと、この機会に当時の先生方生徒諸君にお詫びしなければならないような気分になります。そういう訳で、何となく自分のアイデンティティを保ちたくなって、私は姓名の「名」まで含んだ四角い四文字のハンコを作り愛用しはじめたのもその頃でありました。それ以来もう20年近くが経過しそうになっていますがいまだにその判子は大事に使って、ひとりで当時の藍澤先生との出会いを思い出しております。
 同じ名前ではあっても性格は全く異なっていたようで、私がそそっかしくて自己主張の強いわがまま人間であるのに対して、彼は几帳面でやさしく、穏やかで奉仕的な、若さをもった仏のような人格者でありました。実際彼はその後の一生を小山台に捧げたのに、私は6年間わがままをさせてもらって飛び出してしまったわけであります。
 従って議論でぶっつかり合うということはめったになかったのですが、一度だけ彼がつよく印象をもらしたことがどういう訳かいつまでも私の頭の中に残っています。生徒の和訳の仕方について私が公文に基づいた直訳の重要性を主張したときに、彼は生徒は意訳が出来ないことを実感をこめて述べたことがありました。私も、生徒が、意味をつかんでいないのに訳だけ形に整えようとする傾向があることを感じていたので、彼の言わんとすることにはすぐに同意できましたが、その時の彼の真摯な態度がその後もずっと脳裏に焼き付いて離れないのです。

「もしもし 藍澤先生ですか?」
    田中 和子(英語科)

 藍澤先生とは学年でも部でも直接一緒に仕事をしたことはありませんが、ふと気付くと、困った時、迷っている時、愚痴をこぼしたい時、なんとなくおしゃべりをしたくなった時、碁を打ちたくなった時、どんな時でも藍澤先生にお願いするようになっていました。親身になって話を聞き、じっくり相談に乗って下さる。時にはこちらが「もうほどほどでいいですよ。」と言いたくなるほどで、それでいて決して押しつけがましくない、そんな先生でした。過去の資料が必要なときは、きちんと整頓されているようにはみえないロッカーを開け、書類をほうり込んだだけにしかみえないファイルの山から、目指す一枚を難無く探し出してくださいました。一見雑然としているようでも、必要なものがさっと取り出せるとはさすが藍澤先生だと感服したものです。こういう藍澤先生が入院されたのですから、日がたつにつれ私のおなかの中は話したいことで一杯になっていきました。
 そこで思いついたのが電話作戦でした。入院されている無菌室は外界から遮断された特殊な環境なので、外からの電話はきっと退屈しのぎになるにちがいないと勝手な理由をつけ、先生の体調の良さそうな時を選んで電話をかけました。
 9時就寝と伺っていましたので、8;30頃にかけ始めます。学校の近況報告に始まり、病室での出来事・・・どんな食べ物も(殺菌のためでしょうが)舌がやけどしそうなほど熱いこと、薬で味覚がやられているので食欲がわかず、一口食べるたびに比較的口当たりの良い果物をひとかじりする、つまりお茶でご飯を流し込むように果物でご飯を押し込むといった状態であること、腐る寸前の食べものはうまいだろうな、退院したらぜひ食べたいとか、テレビはあまりすきではないが暇つぶしには料理番組が一番だとか、無菌室ではトイレの後はもちろんシャワーの後でも薬を使って自分でいろいろ消毒しなければならず、思ったより忙しいことなど・・・が話題になりました。最大の楽しみは読書だということで、面白そうな本や話題になっている本についてもよく話しました。本といえば、「インドへの道」"A Passage to India"を貸してくださいましたが、映画は見ずに終わりました。学年主任という立場上女性と二人だけになることには気を付けるようにアドバイスを先輩(?)から受けていたとのことで、これが生徒の落ち着かなくなった原因だったのでしょう。この話をしますと「そんなことあったかなあ?」と電話口で笑っていらしゃいました。
 電話をかけ始めて15分か20分くらいたつと「腕がつかれたでしょうから切りましょうか?」とたずねるのですが、「大丈夫だよ」の声でまた続けます。9時少し前「ちょっとまっててね」という声に続いて、電話口から少し離れたところから先生と看護婦さんとの「異常無し」のやり取りが聞こえ、「お待ちどうさま」でまたまた話しを続けます。うっかりすると1時間近くも話してしまうのですが、藍澤先生と長電話なんて最も似つかわしくないもので、今考えると申し訳ないことをしていたような気がします。
 最後の電話は9月の長雨にたたられて延び延びになっていた運動会がやっと終わり、数日してからのことでした。20年ぶりに黄団が優勝したこと、藍澤先生が高1のとき担任したり英語の授業で教えたりした生徒達(当時高3)の活躍ぶりなどについて話がはずみました。一呼吸おいて藍澤先生はややあらたまった口調で話し出しました。
「僕の病気はなかなか厄介で現場復帰は無理らしい。迷惑をかけて申し訳ないが、休職できるだけさせてもらって、休職期間が切れたら退職する。必要に応じて入院治療し成果があがったら家に帰る。そしてまた治療のために入院・・・と繰り返していくのだろうな。そんな状態だから4月には後任を決めてほしい。」
 何もいえないでいる私に先生は淡々と話されました。しかしその後はいつもと同じ調子の長話になり、最後は、これもいつもと同じ、「でも僕は大丈夫だよ。」という力強い言葉で電話が切られました。
 その後二週間もたたないうちに電話の通じない世界へ旅立たれるとは・・・一日も早く元気になりたい、元どうりとはいかなくても多少とも生きている証しを感じられる生活に戻りたいと、必死に病と闘っておられた先生のお気持ちを考えると本当に残念で憤りさえ覚えます。凡人の平均寿命を50年に収束されたのだと諦めざるをえないのでしょうか。
   藍澤先生、本当にありがとうございました。

「藍澤先生のやさしさ」
    岩水 友江(英語科)

 私は藍澤先生とご一緒させていただいた期間がとても短いのですが、先生のおやさしさが深く印象に残っております。
 小山台に転勤して初めての職員会議で遅くなって、華道クラブで使ったお花を机に置き忘れて大急ぎで帰宅してしまったことがありますが、そっと水の中に浸しておいて下さったことなど、先生もお加減が悪かったでしょうにそのお心遣いを本当にうれしく感じました。
 お亡くなりになりご葬儀も終わって学校の机を整理されるので奥様とお子様が英語科の部屋にいらっしゃいましたが、お子様がお父様のお使いになっていた机をなでたり、椅子に代わる代わる座ってみたりしていらっしゃるご様子が本当に悲しく涙が出て仕方ありませんでした。そのお子様達もそれぞれ大学生と中学生になられ、ご活躍とのことを伺ってうれしく思っております。
 どうぞご家族の皆様、立派なお父様の思い出とともにお元気でお過ごし下さいますよう、お祈り致しております。

「凛々しく魂の叫び」
    北見 英二(元英語科)

 藍澤先生が亡くなられて、早くも1年余りが過ぎ去った。あらためて先生のことを思う時、やはり先生の根本に在る厳しさを私は考えてしまう。先生の様々な側面をみつつなお先生のストイシズムに突きあたる。
 試験問題の設問・配点の適否にたいする執拗さ、どれも試験問題というものがどうあるべきかを求めてのことであった。
 生徒の修学旅行委員の集まりで京都の宿の位置を委員達に確認させた時も、位置の確認、とはどういうことなのかを身をもって教示された。未知の(生徒にとって)京都の地図をまず俯瞰させ、京都の概念を掴ませながら、こんどは拡大鏡で見るかのごとく焦点を徐々に徐々に絞り込んで、そのピントが些かの狂いもなくピタリと目標の位置で決まる。その時の鮮烈な(おおげさでなく)印象をわたしは決して忘れないのである。ここが君達の宿なのだよ。ということをかくも見事に教えた例を私は知らない。なるほどこういう位置関係なのか、委員達は明瞭に会得したに違いない。
 生徒の生活態度の乱れに対して先生は非常に心を痛められた。授業の怠業は勿論、無断外出、遅刻、服装の乱れ、さらには人前で髪をとかすことまで、およそ生徒が自らを大切にせぬ、礼儀をわきまえぬ、無分別な行いに及んだ時、先生は毅然として姿勢を持ち続けられた。
 夏休みの直前の学年集会で、生徒部であった先生は、熱心に夏休みの過ごし方を説かれた。それは生徒の実態を踏まえ、かつ先輩の実例を具体的に引きつつ、生徒の心を掴んだ実に迫力に満ちたもので、言葉のひとつひとつにこまかな配慮と、先生自らの行動力と体験に基づく深い重みがあった。 入試選抜業務のお仕事では、その正確さを期す入念さは、時の学校長の疑義の指摘をも一蹴し得る凄まじいばかりの迫力があった。
 何事にもこうあるべきという規範がまずあり、それに沿うべく粉骨砕身、懸命な全力投球をなさる先生の姿をここに見るのである。
 こうあるべき、というところを放漫に、あるいは狡猾に見過ごせばこの世界がいかに安楽に生きられるかは恐らく誰もが本能的に知っており、大方の人間はその律を放却し、安逸を貧るのが常である。それに引き換え先生のあの強靭なる精神は一体どこからくるのであろうか。
 西尾幹二氏はその著『日本の教育ドイツの教育』のなかでニイチェがいっさいの保身を望まず、自分の利得にならないような態度決定をあえて選んで歩いた、と紹介したあとで、つぎのように述べている。
 「そんあ(ニイチェのような)生き方は万人向きではないし、また万人がなすべきものでもない。私は人間はもっと俗物であって良いと考えている。それはそうだが、物事は程度問題で、安全だけを考えて生きる人間や、人生をただ利口に渡って行こうとする性根の見えている人間を、私は評価できない。信じる道を夢中で走って、しなくてもよい損を引き受けることがあってもよい。ときに愚直に生きた結果として大きな事業をいつしか達成していた、そういう人物でなければ、第一いわゆる人間的な魅力を私は感じない。時代が窮迫していれば危険に生きるそういう人間像を生み易く、安定した繁栄社会では官僚型の小人翼々とした人間を出世街道に載せる。(第7章217ページ 以下略)」
 窮迫を欠く時代など実は存在しない。真摯に生きる者にとっていつの時代も「窮迫の時代」なのである。先生はこの混迷の時代に、気高い理想を見ていたのである。その気高さは皓々と聳えるアルプスの高い峰々にも似て、厳しく美しい。そして藍澤先生の強靭な魂の叫びはその峰々から響き渡る。強く、優しく。もしそうでないとするなら、あの難しい年頃の生徒たちがよくその教えに随い、自らの進路を見定めあのように立派に巣立っていったはずはないのである。
 世間はその随所に真の教師を配しているものであるが、それにしてもかくのごとき気高い魂にごく身近で邂逅できた幸せを、最後に私は、深く感謝したいのである。切磋琢磨なき微温的安寧に徒に欺瞞を重ねることを凛として断った魂の崇高さ、その塊りのほんの一片でもよい、もしこの私に持てれば、と願いつつ、万葉集より歌を捧げ、筆を擱きます。
 人はよし思ひ止むとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも(巻2・149)

「あいざわ流哲学について」
    新海 幸平(元英語科)

 故藍澤先生と私の出会いは、小山台高校で1981年(昭和56年)4月であった。以来、1989年(平成元年)3月まで8年間ご指導を賜ることになった。同じ英語という教科、同じ学年で担任をした、そのため、英語科の部屋での席も隣同士であったので、藍澤先生が元気バリバリの頃をよく覚えている。
 全行が教育困難校だったので、喜び勇んで小山台高校へ転任し、直ぐ担任を持たされた。経験不足で未熟な私が戸惑いながら、いろいろ指導やら相談させてもらったのが、藍澤先生であった。常にネクタイ・スーツを着て、髪をオールバックに、たばこはハイライトをくゆらせていた姿を思い出す。
 非常に緻密な方で、長年にわたり教務係の担任をなさっていたのはまさに適材というべきである。万事におおざっぱな私とは好対照で、細かいところまで実によく指導して下さった。定期テスト問題の不備やミスプリントを素早く指摘してくれ、生徒指導のイロハ。オカミに出す書類の書き方、小山台高校でのしきたり、など。余りにきめ細やかなので、さぞストレスが溜まるのではないか、という俗物の勘ぐりを超越なさってもいた。一面、飄々として、軽く口笛が聞こえてくるのであった。血液型がB型。A型の小心者の私にとっては、先生はまさに怪物である。
 飲む方は、というと、そこそこ(?)、とお見受けしたが、存分わたしのような若輩には胸襟を開かなかっただけで、越後は柏の出のつわもの、酒でも強の者であったろう。一緒に飲みたい時は、私が誘うとシブるので、常に他の先生(藍澤先生が一目置いている人)に誘ってもらうことにした。「大甚」で飲み、「ゼロ」へ、がお定まりのコース。カラオケでは、いやいや歌うのに歌が一番うまい。冬は大雪に埋もれる郷里を思い出し、思い入れタップリに「北国の春」を歌うものだから、余人を寄せ付けない魅力がある。突然飲むことになっても、いくら遅くなっても、家には決して連絡しない、(実は連絡しなくてもいいようになっているはず)という昔カタギ。「奥さんに小ごとを言われませんか?」と聞くと、「うちの奥さんは、あれは怪物だよ」と軽く受け流された。「怪物」が「怪物」と一目置いているから推して知るべし。何でも、その真意は、飄々としていてマイペース奥方、だということらしい。私が察するに、先生は奥様のことを内心感謝しながた(昔カタギの面をお持ちだから、口には言わないだろう)、一目も二目も置いていたに違いない。なにしろ、奥様もまた中学の英語の先生、家では主婦、母、妻であり、大所帯の切り盛りをなさっておられること、がカウンターでの水割りを飲みながらの切れ切れ」の会話から伺い知れた。律儀な先生のことだから、不意に飲んで遅く帰ってから、奥様の手料理に報いるべく、独りでお鍋をあっためて食事を召し上がるんだろうと想像した。
 生憎、私は将棋、先生は囲碁、と同じ盤を囲むことはなかったが、棋風は粘っこいらしい。囲碁で先生を知っている人が羨ましい。巳年の人はネチッコイなどと英語科で冗談を言い合ったものである。生徒指導でも、長い時間をかけて粘り強くやっていたからこそ、生徒の信頼を得て多くの生徒から慕われたのである。何事でも決して諦めない、弱音を吐かない。言語数は少ない方であり、どちらかというと、不言実行タイプの人であろう。
 あれほど、同僚から信頼を得た理由の最たるものは、人の陰口を言わない、人の嫌う面倒なことを潔く引き受けようとする精神ではなかっただろうか。そして、その事で決して恩着せがましい態度をとらない誠実さ、であっただろう。私自身が先生とは正反対の性格なので、それがよくわかる。柔道班、野球班の顧問を長年続けたのも、その一例である。練習であれ、合宿であれ、試合であれ、生徒の怪我、危険にはビリビリするような心配りをしていた。グーダラな私には思いも寄らないほどの木目細やかさであった。「引く受けたからには、徹底してやる!!」と(決して口には出さないが)私の耳に聞こえるようである。
 ものごと「はまる」と、しばしば言っておられた。「はまって」物事に当たる。集中して、徹底して、今期強く、斜にかまえず、手抜きせず、やる。「なりふり構わず」ほどの狂乱ではなく、冷静さも見える気がする。しかし、先生のカリスマ性を帯びた語調で、この言葉を聞けば、やはり「なりふり構わず」の方に近くなるかも知れない。生徒をその気にさせる迫力というか、神通力というか、巻き込む力は凄かった。授業が終わったはずなのに、五分も延長している。職員室に戻って、まだ熱気がありそうだ。大事なスーツの背中にチョークの粉がついている、と隣で観察していた私は羨望さえ感じた。その時の私は多分、師匠の秘伝を盗もうとする弟子に似ていたであろう。
 思うに、小山台高校の8年間は私にとって、相手にしてもらえない半人前の未熟者が何とかして、自分を認めてもらいたいがための試行錯誤の年月であった。自分の尊敬する人から尊敬してもらえる人間になりたい、悩みの試行錯誤の毎日である。
   ご冥福を祈りながら・・・・

「花瓶の思い出」
    富田 祐一(元英語科)

 藍澤先生の訃報をお知らせ戴いた夜、食卓に一本の花瓶を置き家内と二人でお酒を飲みました。6年前、先生がご家族で中国地方を旅された折、私たちの結婚祝いにと先生が下さった花瓶です。心からの感謝の気持ちと「本当にお疲れさまでした。ゆっくりとお休みください。」という気持ちでいっぱいでした。後日奥様から伺ったのですがその花瓶を選んで戴いた時、奥様と藍澤先生との間で随分と長い間やりとりがおありだったとのことでした。奥様は懐かしそうにその時のことをお話しくださいました。先生のこと、さぞ色々なことを配慮して選んで下さったのだと思います。細身で淡い藍色の、気品のある、見ていると心がほっとする、先生御自身のような花瓶でした。
 先生は人のために何かをなさろうとする時、決まって照れくさそうで伏し目がちだったような気がします。押し付けがましくなく、いつも周囲の人たちの気持ちを考えておられるのに、ことさらにそのことを相手に伝えようなどとは決してなさいませんでした。先生がその花瓶を職員室で私に手渡して下さった時もそうでした。「これ、よかったら使って下さい。」とだけでした。そこに表された表現がさりげない分だけ余計にその暖かさを感じさせられました。
 思えば、先生が、学年主任としてその重責を果たされた3年間、同じ学年で働かせて戴いたことは私にとって本当に幸せなことでした。私はあれほど自分に厳しく、信念を持ち、人の見えないところで努力し、周囲の人たちの気持ちを思う、暖かい人を今まで知りません。先生からは教わることばかりでした。今だにそのほんの一部も実行に移せない自分を本当に恥ずかしく思いますが、これからの人生、少しでも先生に恥じない生き方をしなければと思うこの頃です。
 その夜、花瓶の上に幾重にも重なって浮かんだ先生との思い出は、深い悲しみの中であるにもかかわらず、とても楽しいものばかりでした。思い出の中の先生の顔にはあの暖かい笑みがありました。先生は最後まで本当に暖かい方でした。

「ささやかな思い出」
    矢口 洋子(司書教諭)

 17年間も同じ学校に勤務しながら、藍澤先生と私は殆どじっくりお話しする機会をもたないまま永の別れをすることになってしまいました。それは、私が図書館の職員で、教科にも学年にも属さず、加えて私の性格が積極的に人と交わることをしなかったためと思われます。
 それでも、いくつかの思い出を持っています。
 先生は大変几帳面な方と伺っておりましたが本当にそうでした。昭和61年、先生が3年の学年主任になられたときのことです。生徒に何か注意することはないかと聞かれましたので、図書館では飲食しない等いくつかお願いをしたところ、すぐに、別紙のような注意書を図書館の入口のドアのガラスに貼って下さいました。それから、毎年、私はその注意書をコピーして、新しく学年主任になられた先生にお渡ししております。先生のお陰で本当に重宝しています。
 楽しい思い出は、鹿沢の山にご一緒したことでしょうか。昭和62年の文化祭の代休を利用して、藍澤、太田、松井、峰、近藤先生と私の一行6名は、太田、峰先生の車に分乗して、登戸駅前を出発。その日は、三方が峯に登りましたが、夕方でもあり、曇っていて、北アルプスも八ヶ岳も浅間山も三方、まるっきり眺望がきかず残念でした。翌日は、湯の丸山、烏帽子岳に登山。湯の丸山頂での先生のお顔がとても美しく輝いていられたことを覚えています。烏帽子は私独り遠慮して、鞍部で待っていたのですが、先生はお元気に登られました。あれが最後の登山ではなかったしょうか。温泉に泊っても、女は私一人だったので、夕食後は、先生方とお話もせず、一人先に寝てしまいました。先生とゆっくりお話し出来る折角の機会でしたのに残念なことをしました。
 私は鹿沢の山が好きで、合宿等の引率だけでなく、個人的にも、何回となく訪れましたが、鹿沢の山には死に神様がおられるのでしょうか。ご一緒に登山した先生方のうち、藍澤先生、矢野先生、水越先生と3人の先生方がもうあの世に旅立ってしまいました。淋しいです。先生安らかにお眠りください。



「藍澤選背と私」
    関 隆男(昭和53年卒)

 私は、藍澤先生には、高校3年間、英語を教えていただき、さらに高校の1年の得には、クラス担任としてお世話いただきました。それよりも何よりも野球班の顧問として3年間お世話になりました。
 藍澤先生の面影は今でもはっきりと覚えています。笑顔がすばらしく、授業中に冗談を言っては我々と一緒に笑い、その反面、眼鏡を外すと鋭い眼つきで我々を威圧し、有無を言わさず宿題を課す、そんな先生でした。
 私は、高校1年の時、藍澤先生の英語の授業中に、キャサリーン・ヘップバーンのことをカトリーヌ・ヘップバーンと読み、クラス全員の爆笑をかったのですが、私が何故笑われたのか分からずに呆然と立ちすくんでいたところ、藍澤先生は、すぐに私の読み間違いをフォローし、「キャサリーンというのは、フランス語のカトリーヌと語源が一緒かもしれないな。」とおっしゃって、クラス全員の爆笑を沈めてくれました。
 また、私が、高校2年の秋、野球の練習試合の際に、ホールを眉間にぶつけた時には、つきっきりで看病して下さり、帰りの電車の中で私が貧血を起こして倒れた時には、即座に抱きかかえてホームに降ろし、そして病院に連れて行って精密検査を受けさせてくれました。その間、先生は私に心配させないようにと、笑顔で「大したことはないから。」と言って励ましてくれていたのです。
 さらに、私が、高校3年生の時には、大学受験の直前に我々に入試によくでる連語をプリントしたものを配布して下さり、慶応大学の入学試験の当日の朝に私がそれを見て覚えたところ、その日の入試には、ほとんどそのプリントに載っていた連語が出題されていたのです。そのため、私は、ほぼ無理と思われていた大慶応大学法学部に現役で合格することができました。私の今日があるのも藍澤先生のおかげだと思っています。
 藍澤先生が亡くなられたとの一報を受けた時、私の脳裏にはこれらの思い出が走馬燈のようにかけめぐりました。先生が2年間もの長い闘病生活の末、亡くなられたなどということは、今回、この追悼文の依頼を受けるまで全く知りませんでした。せめて、亡くなられる前に、先生を見舞って、先生の苦しみを少しでも分かち合いたかったと思うと悔いが残ります。
 藍澤先生のご冥福を心からお祈りいたします。

「あのとき」
    秋保 尚志(54年卒)

 藍澤先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 野球班顧問をしていただいた藍澤先生の思い出というと、私には三つのシーンがいまもくっきりと思い出される。
 そのひとつは、高校2年生の夏合宿。練習は辛いながらも、上級生が抜け、われわれの転嫁になったという開放感があった。伊丹利明君がこの追悼文章にも書いているが、いわゆる「スリッパ事件」を起こして、合宿所や学校関係者に迷惑をかけた。
 それでもわれわれは懲りなかった。雨で練習が打ち切りになった時、引き上げた合宿所の部屋で、バカ話をしながら大声をたてて笑っていた。今考えれば恥ずかしいような下品な声は、他行の学生もいる合宿所に響きわたるものだった。その時、ドアが開いた。「だれだ、馬鹿みたいな声を上げているのは。ちょっと来い。」真っ赤な顔の藍澤先生が立っていた。
 別室で、正座させられた私た3人に、「君たちはいったいどういう了見をしているのか」と問いかけ、「自覚」を説いてくださったと記憶している。
 ふたつめは、その役2か月の秋季大会のブロック決勝戦のこと。3連勝し、翌年夏の大会のシード権を獲得。その試合に勝てば、本大会出場というところだった。同年の夏の大会でも4回戦進出の成績を残していただけに、「俺たちは強いのではないか」と思い、勝ちを意識して始めたころだった。だが、わがチームはこの試合では、まったく打てなかった。じわじわと点を離された。私は、見方がアウトになるたび、ヘルメットを地面に投げつけたり、グローブを叩きつけたりした。
 その時、ベンチの左隅にいた、藍澤先生が立ち上がって叫んだ。「アキホ。動物じゃないんだ。いちいち、かっかするな。冷静になれっ」。
 私は士気を高めようとの、パフォーマンスのつもりだった。だが、それ自体がこれまでの「明るく楽しくやっていたら、いつのまにか勝っていた」という、自分たちの野球を忘れていた行為だった。自然体を忘れていたことを思い知らされた。
 そして、3番目の風景。そのブロック決勝戦で敗れて、われわれ「2年生9人は全員退部届を出した。理由は、コーチ陣との折り合いをあげるものもいたし、受験勉強をあげる者もいた。仲が良かっただけに、そうした要素がからみあって、みんなで辞めるという「勢い」が加速した。野球班として、集団退部はあまり例の無いことだった。
 数日後、辞めた全員が放課後に藍澤先生に呼び出された。
 掃除も終わり、がらんとした教室。当時の「新館」の部屋だったと思う。「どういう理由で、やめるのだろうか。ひとりずつ理由を聞きたい」。西日が差し込む窓際に座った先生が、ボツボツと語り出した。
 遠巻きに、ばらばらに座った仲間たちが順番に答えた。理由は、それぞれだった。私は受験勉強などをあげたと思う。
 その時、藍澤先生の手にあった一冊の本が今も忘れられない。
 『甲子園の心を求めて』。当時、「都立の星」と言われ、甲子園目前とも評価されていた都立東大和高校の野球部監督、佐藤道輔教諭の著書だった。
 ひとりひとりの話に、口を固く結んでうなづいていた藍澤先生は、結局、聞き役に終わった。1時間もなかったと思う。先生の手にあったその本は、とうとう開かれず仕舞いだった。
 あのとき、先生は何を語ろうとしていたのか、飲み込んでしまった言葉は何だったのだろうか。それまで、浮ついた局面で、自分を見失わないようにと、心の中には、先生に説得されたいという、そんな甘えもあったと思う。
 いつか先生に、あの本の意味、そして何を語ろうとしていたのか、を聞きたいと思っていた。しかし、そのチャンスはなかった。
 このたび、先生の訃報を聞き、改めて『甲子園の心を求めて』を手に入れ、読んだ。甲子園への道はるかに敗れ去っていった球児の群像。晴れ舞台とは無縁だが、離島や弱小都立高校で、それぞれに努力する無名選手の「ひたむきな心」が記されていた。
 いま振り返ると、あの「野球を続けるか否か」は、自分にとって、ひとつの転機ではなかったかと思う。それだけに、あの場面で、先生が伝えたかったことを、先生の口から聞きたかった。
 本当に残念です。

「とわに野球班と共に」
    石松 淳一(54年卒)

 選手・コーチ・監督・総監督と、通算すると6年間、何らかの形で小山台高校野球班に拘りを持った私にとって、藍澤先生は、唐突ではあるが、正に守護神そのものであった。
 生徒の時は、何より礼儀慣習等・所謂社会通念という掟の上に初めて、規則ルールを持つ野球というスポーツは成立するのだという事を教えて戴いた。凡打を悔やむ前に、ヘルメットを地面に叩きつける行為でしかそれを表現出来ない己れの未熟さを恥じよ。又、合宿の主眼は寧ろ野球技術の向上よりも、人格の形成にこそあるのだ。有形無形のご指導によって深くそして長く心に植え付けて戴いた教えの、これらはそのほんの一部である。
 コーチをしていた頃は、何と言っても、一転して我々を大人として遇して下さったことが、うれしい印象を残している。が、今思えば、単なる学生OBに過ぎない生意気な若造を、あれほどまで持ち上げて下さったのは、矢張りそれまでとは種類の違う教育が、引き続きなされていたと考えざるを得ないようだ。人を教える立場にある者に、その相応しい心構えを如何に持たせるか。或いは、高校野球の真の目的が那辺にあるのかを誤りなく選手たちに伝え得る者たちにするには、彼等をどのような分際と自覚させるのが最も効果的であろうか。藍澤先生の大いなる教育精神の、見事な発露と言えよう。我々と交わす会話内容の比重が、この時期不思議と野球技術論に偏り出したのも、またそのひとつの証左である。
 残念乍ら、私の監督・総監督と藍澤部長先生というコンビは、巡り合わせが悪く終に一度も実現することはなかった。併し、練習中も試合中もまた合宿中も、指導を取る自分の背後には常に藍澤先生の仮像があった。選手そしてコーチ時代を通じて学んで来た事を、しっかり次の年代に手渡しているかどうかを、その試行錯誤する姿を、優しく包むように見守って下さる先生の眼があった。冒頭でいきなり私が先生を守護神に譬えた所以である。
 最後に、これは希望的観測では決してない筈だと確信しているが、現在も、そしてこの先もずっと永く、小山台高校野球班の守護神として、藍澤先生の大いなる精神は連綿と受け継がれてゆくに違いない。直接間接に薫陶を受けたOB連中が、この素晴らしい伝統を連呼として守り抜く覚悟である。

「痛恨のエラー”今市スリッパ事件”」
    伊丹 利明(54年卒)

 高校在学中、英語科の先生として、また、野球班の顧問として大変お世話になりました藍澤先生ご逝去の報を聞き、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 特に班活動の部長先生としての思い出が多く、現役班員に混じって、白のトレパン姿で、トス・バッティングなどの相手をしていただいたことは、今でもはっきりと覚えています。しかし、なんと言っても最大の思い出は、高校2年の時の夏合宿において起きた「スリッパ事件」ではないかと思います。
 当時、野球班は栃木県今市市の「青少年スポーツセンター」なる施設で夏合宿を行っておりました。同所は来るべき「赤城国体」の主要施設として整備を進めており、野球場も大変立派なものでした。他の班は、山中湖周辺の民宿などを利用しており、比較的「泊っていただいている」というムードがあったと思いますが、同所は管理責任者が地元高校体育教諭の輪番で、朝のつどいなるラジオ体操に始まり、何かにつけ教育的見地からの苦言が多く「使わせてやっている」的な研修センターでした。
 同センターに到着し、軽いトレーニングを終えて迎えた2日目の朝のつどいの時、私は自分のスニーカーが見つからなかったことと、指導で来られていたOBの1人がそうしていた(と当時、思った)こともあり、センター内にあったゴムスリッパでつどいに参加しました。スリッパで砂利道を歩くのは思いのほか痛く難しかったのですが、事の良し悪しについては、今、考えても不思議なほど、何も考えていませんでした。これが、まず第一のエラー。
 不幸にしてスリッパ姿を当日の管理責任教諭に目撃された私は、朝の訓示の格好の餌食となりました。趣旨としては、次の三つだったと覚えている。
 ①この集いにスリッパで参加している不届き者がいる。
 ②本センターは、県内から利用申し込みが殺到しているところ、無理をして県外(つまり都立小山台高校)に貸したらこのザマである。
 ③小山台野球班は即刻タイショしてくれ。
 引率の藍澤先生はじめ、OBも班員も顔面蒼白になっていたが、私は何とこの「タイショ」の意味を履き違えており、全く悠然としていた。つまり、私以外の人は「退所」と理解しており、センターから追い出されることを極めて重大に受けとめていたのだが、私は「対処」と信じていたので、誤りに来い、程度の意味にしか思っていなかったのである。スニーカーとスリッパの履き違えに加えて、この「タイショ」の意味の履き違え~痛恨の大エラーである。
 私は「対処」説には、皆一様に呆れ果てた様子であったが、この場に及んでも私は「日本語は難しいな」ぐらいにしか把えていなかった。今考えるに、赤面するほどの非常識人間である。しかし、ちなみに現在、仕事をしていて不本意ながら取引先から「重大な認識をもってタイショしていただきたい」的なクレームをいただく時があるが、まず100%「対処」の意味であり、要は上職者を同伴して謝りに来い、ということである。
 この事件以来、頼りない日本語に見切りをつけ、より同音異義語の少ない英語の勉強に集中したのは言うまでもない。
 私の無知、非常識によって藍澤先生以下全員で謝罪に詣で、最悪の事態(退所)は免れましたが、先生はさぞ肩身の狭い思いをされたかと思うと、申し訳ない気持ちです。こんな非常識な私は、今、野球班のOB会の事務局長を拝命致しております。先生はさぞ、天国で苦笑いをされていると思います。
 色々な事がありましたが、野球班での活動は今でも私と友人たちとの最大の絆になっています。数々の試練と思い出をありがとうございました。

「藍沢先生の思い出」
    佐藤 淳生(59年卒)

 藍澤先生が卓球班の顧問となられたのは、私が2年生になり班長となった時でした。また、私にとって先生は2・3年の時の担任であり、班活動や進学等多方面にわたりいろいろとお世話になりました。そこで、班活動での思い出や担任として接して頂いた事などを述べさせて頂きたいと思います。
 まず、班活動の思い出ですが、最初に思い浮かぶのはとても熱心に接して頂いたということです。こういう言い方が適切かどうか判りませんが、それまでの卓球班の顧問をされた先生方は大体において、なにか行事を行うような時ただ承認のサインをするだけの様でした。しかし藍澤先生は試合等を行うと必ずと言ってよい程会場へ足を運んで下さり、一通りご覧になっていかれました。初めて来て下さった時、皆も初めての事だったので私より先に先生に気づいた者が、やや興奮した様子で「藍沢先生が来てます。」と言いに来たのを憶えています。挨拶をしに行くと、穏やかな表情で怪我のないように、そして頑張るようにとおっしゃられました。それが励みになったのか、皆それぞれに頑張った様で、事実私の卒業までの2年間はなかなかの成績を収める事が出来ました。
 また、それは後に述べる担任としての藍澤先生の話とも関係するのですが、私は英語が大の苦手で従って成績も芳しくありませんでした。しかし班長として何かと相談しに行かねばならず(勉学についてよりも多かった)、その度に必ず勉強の方も頑張るようにと言われ小さくなったものです。
次に担任としての思い出ですが、前述しました様に、英語の苦手な私としては当時先生に大変心配をかけたのだろうと思います。授業中もどちらかといえば上の空だったことが多く、よく𠮟られたものでした。その中のエピソードで今でも親しい高校時代の友人と会う度に笑い話の様に話されていることがあるのでここで話しておきたいと思います。
 それは先生の授業中にいつもの様に上の空でボールペンをいじっていた時です。いきなり後ろから「佐藤さん(当時、私だけが何故か”さん”付けで呼ばれており、友人に言わせると私は別格だったという事です。)は何をしているのかな。」と静かな声がしました。その瞬間我に返った私は身をすくめ、ソーッと振り返るとすぐ後ろに先生が”またか”という様な表情で立っておられました。この時ばかりはさすがに”ヤバイなあ”と思っていると、案の定先生が「いかんぞ。」と言い、軽く頭を叩こうとしたのです。弁解するわけではないのですが、その時頭では素直に叩かれようと思っていたのですが、つい体の方が反射的によけてしまい、空振りするような格好になり体勢を崩された先生が、友人に言わせると(誇張まじりだと思いますが)「くるりと回転」してしまい、叩こうとした方もされようとした方もしばしあっけにとられてしまいました。その後で暮らすが爆笑の渦になったのは言うまでもありません。その様な事も今となっては良い思い出だと思います。
 最後に線背う意にお会いしたのは、確か大学3年(大学も2浪だったので最後まで心配をかけっぱなしでした)の時の卓球班OB会の時でした。その時卒論のテーマなどについて話したように記憶しています。その時既に病を患っておられた御様子で、昔のイメージと大きく違っていたのが印象的でした。しかしその穏やかな表情は昔のままであり、じっくりと諭す様な口調で様々なアドバイスを与えて下さいました。
 私にとって藍澤先生は高校時代で公私にわたり最も大きな存在を占める人物であり、従って悲報を受けた時、心の中で大切な何かが失われたのを感じました。心配の掛けっぱなしだった私にとって、立派な存在になっていつか必ず先生に会いに行こう、という気持ちがいつも心のどこかにあったのです。結局、先生の生前にそれを果たす事は出来ませんでしたが、この気持ちはこれからもいつまでも持って行こうと思います。それが今の私に出来る唯一の恩返しだから。

「藍沢先生へ」
    飯村 啓子(62年卒)

 小学校、中学校、高校、大学と続いた16年もの学生生活。その長かった学生生活の中でいちばん大好きだった先生が、藍澤先生、あなたです。その先生が私はもうこの世にいらっしゃらないと思うと・・・涙がこみあげてきます。
 先生の笑顔にもう一度会えたら・・・もう一度ユーモラスな口調で話しかけてもらえたら・・・。
 でも先生私は淋しくはありません。私の心の中には今でもちゃんと笑顔の先生が生きているんですもの。
 私の知っている先生は本当にいつも笑顔を湛えていらっしゃいました。怒った顔・・・?見たことない。でも、先生は怒りはしませんでしたが、先生に「そんなことでいいんですかぁ・・・先生は知りませんよぉ・・・。」と言われると、怒られているわけではないのに、「あ、こんなことじゃいけない。」と思ったものです。先生の笑顔で注意されると、「先生の笑顔を消しちゃいけない。いつも先生が私に微笑んでくださるようにいいコでいなくちゃ。」って思いました。
 先生って、とってもユーモラスで人を楽しい気分にさせる不思議なpowerの持ち主ですよね。先生の発音はとても独特で、なんとなく普通の人とは違っていて、みんあでよくまねしていたんですよ。varietyの発音や、名前を呼ぶ時の発音・・・今でも耳に残っています。
なんといっても忘れられないのが、”星影のワルツ”を英詞で歌って下さったことです。ちょうど”cannot help ~ing"の構文が出てきた時のことでした。いきなり先生は、「仕方がないんだ君のため」というところにこの構文を当てはめて、歌ってくださったんでしたね。あの時の授業、いちばんお思い出として残っています。
 ふり返ると本当にいろいろなことが思い出されます。運動会での先生の大活躍も忘れられません。先生と生徒がペアになって二人三脚をする種目があり、先生がそれに参加されて・・・。あの時先生すごく二人三脚がお上手で、3ペアぐらいをぬいて圧倒的勝利を収めたんですよね。
 いつも先生は生徒と一体となり、勉強においても、その他のことにおいても、とにかく何事においても、一生懸命取り組んで下さいました。先生との思い出は暖かいものばかりです。
 先生・・・!私ずっと思っていたことがあるんです。いつか私が結婚式を挙げる時、先生にだけは絶対に出席してもらおうって。自分のお嫁さん姿を見てもらうんだって。先生が父親というわけでもないのに・・・。先生はもういない・・・。
 あっ、いけない!先生はちゃんと天国から私のウェディングドレス姿を見ていてくれますよね、私はそう信じています。私の理想の男性は・・・先生なんです。暖かい心をもつやさしい人。みんあの気持ちを暖かくしてくれる人。
 小山台を卒業し、大学を卒業し、社会人となりはや5年。先生、私、先生のように暖かくてやさしい人にめぐり会えたのです。いつかその人と一緒になれたらって思っています。そして私にいつか子供が生まれたら・・・私その子に藍って名前をつけるつもりです。
 私は先生から、勉強だけではなく、人間愛なるものを学んだ気がします。その先生の教えを忘れず、これからの人生において生かせていけるようがんばっていきたいと思います。藍澤先生、こんな私をいつまでも見守っていてください。

「藍沢先生の笑顔」
    伊沢 優希(62年卒)

 今でも信じられません。小山台高校に藍澤先生がいらっしゃらないなんて・・・。私にとって、藍澤先生は、”小山台高校=藍澤先生”と言っても過言ではないほど大きな存在でした。
 あの大きな声と厳しい表情、口数は多くはないけれど、一つ一つの言葉の中には、いつも私たちに対する深い愛情が込められていた様な気がします。そんな私たちに対する愛情は、先生が時おり見せるあの笑顔からあふれでていました。しかし、私がそのことに気づくことができたのは、卒業後しばらくたってからでした。思い出す度、学校に遊びに行こう、先生に会いに行こうと思っていたのに・・・。結局卒業してから一度も学校の門をくぐらずにいたこと。先生に会いにいかなかったことが悔やまれてなりません・・・。
 もう一度、先生に心から「ありがとう。」と感謝の気持ちを伝えたい・・・。
 「先生、たくさんの愛情をありがとう。先生の笑顔と、私たちをみつめるあの優しい瞳は、いつまでも、私たちの心の中で行きつづけ、これから先の長い人生の中で、つらいこと、苦しいことがあった時、力強い心の支えとなっていきます。大好きな藍澤先生、本当に、本当にありがとうございました。」

「藍沢先生をおもう」
    伊藤 美杉(62年卒)

--『ボブコーチは最初からそれを知っていた。取り憑かれなければならないし、しかもそれを持続しなくてはいけない。』--
 ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』という作品の中で、アイオワ・ボブ(主人公ジョンの祖父、レスリングのコーチ)のしめる位置は非常に重要であるように思う。何かに熱中して、それを一日一日繰り返すこと。この一連の作業が一番必要なものだとボブはジョンに教える。体を鍛えること。毎日飽きずにバーベルを持ち上げること。日々のトレーニングを怠らないこと。
 しかし、ボブコーチは、レスリングだけではない他の部分でも、ジョンにとってのベストコーチだったに違いない。ボブコーチの存在の意味は、物語の中ではもちろんのこと、ジョンにとってはことさら重要であり、ボブが死してもなお(あるいは死んだ後一層)、ジョンの心の大部分をしめていたように思う。繰り返すこと。それによって成し遂げられるなにか。
 師(ボブコーチ)がジョンに与えてくれたものは、私のそれと全く同一のもののように思う。何かに集中し、繰り返すこと。そしてその難しさを知りながら、あえてそれを私達にくれた先生が高校時代にいた。その先生の名を藍澤先生といった。
 過去を振り返りながらも、未来を生きなければならない。そしてどこかで少しも前に進めない時がある。そんな時、ふと昔のこと、例えば高校時代という昔を思い出してみたりする。教室、黒板、英語のテキスト。日一日、未来へと漕ぎ進む中でちっとも前へ進めなくなったら、何度も何度もテキストを読み返せば、前に進めるだろうか。そう、18回だ。先生は覚えていらっしゃいますか。そうすれば何かを成し遂げられますか。もうそのテキストは先生からはいただけないんだけれど。
 旅館としての”ホテル・ニューハンプシャー”では、すべての椅子がねじで固定されている。(その昔、この建物が学校だったからだ。)アイオワ・ボブはいう。『ホテル・ニューハンプシャーじゃ何一つ動かないんじゃよ。わしらはここにねじで固定されている--永久にな。』この変わったホテルとボブの言葉は、私にそれぞれ帰る場所、を思いおこさせる。決してネガティブな意味ではなく、永久にねじでとめられた過去も未来もない場所へ、いつか私も帰りつけるような気がする。そのうちの一つが、高校時代であったらと思う。(そんな意味では、ホテル・ニューハンプシャーの前身が学校だったことが、私個人にとって非常に象徴的でもある。)そこでは確かに先生は、いつまでも繰り返し私達に言葉を与え続けたし、今でももしかしたらそうかもしれないと思う。それはごくありふれたものかもしれない。ただ、アーヴィングの言葉を借りれば、”悲運”もやはり全くありふれたものなのだと、今はもういない先生に思う。感謝という言葉はあまりにも陳腐かもしれないけれど、確かに今そんな気持ちを感じているし、それは年をおうごとに強くなるだろう。いつまでも、私のことを忘れずにいてほしいと思う。

「藍沢先生の呼び方」
    須貝 竜生(62年卒)

 高校時代、私は皆から『すぎゃい』という諢名で呼ばれていました。何故このような諢名がついたかといいますと、英語の時間に藍澤先生が私を呼ぶ時に、「では、ここのところすっが~い、訳しなさい。」と独特のアクセントで呼んだからです。何とも不思議に耳に残るおもしろいアクセントだったからでしょうか、それともやはり藍澤先生の影響力が強かったのでしょうか、皆もしだいに私のことを先生のアクセントを真似て『すっが~い』と呼ぶようになりました。それが崩れて『すぎゃい』になったのでした。この諢名がついてからというもの、英語の時間に先生が私を『すっが~い』と呼ぶと、皆もそれに続いて大声で『すっぎゃ~い』と呼ぶようになりました。先生が何も知らずに『すっが~い』と呼ぶものですから、皆も先生の真似をして『すっぎゃ~い』と叫びながら笑ったものでした。
 そんな風に呼ばれるようになってから1か月位たった日のことでした。昼休みに私は藍澤先生に会議室に呼ばれました。「おかしいな~?赤点をとった訳でもないし、何かおかしな事をした記憶もないし・・・」と不安に思い先生の前に行くと、先生はじっと私の目を見て「すっが~い、君は最近悩んでいることがあるのではないか?皆とうまくいってないのではないか?何故皆は君のことをすっぎゃ~いと呼ぶのだ?」と切り出しました。私はおもわず噴き出してしまいました。先生はいつも私を呼ぶ時に、皆が自分の呼び方を真似ていることも気付かず、しかも真剣に私のことを心配してくれていたのだと考えたら、何ともおかしくて笑わずにはいられませんでした。事情を先生に説明したら、先生も照れたように赤くなって笑いました。
 さて、ユーモアを解する心を持っていた先生のことですから、その後も私のことを『すっが~い』と例のアクセントで、軽く笑みを浮かべ呼んでくれました。クラスの皆も飽きずに卒業するまで『すっぎゃ~い』と呼びました。そんなユーモアがあって、しかもまじめな先生が大好きでした。  今でも高校時代を振り返ってみると、この事が真先に思い出されます。この『すぎゃい』という諢名と英語の時間の楽しい思い出は、藍澤先生が私にくれた宝物です。

「担任藍澤先生」
    藤懸 慎一(62年卒)

 小学校から高等学校まで、担任の先生が私の場合は8名いた。今考えると担任の先生には大きく二つのタイプがあり、一つは自分のために考えるタイプ、もう一つは、生徒のために考え、行動するタイプである。現在、私の思うには、世の先生方の8割程度が前者のタイプである中で、藍澤先生は正しく生徒の身になって考えてくれている担任であった。
 藍澤先生の生徒への接し方はとても自然体であり、力を抜いた説教をされたものである。立てば、私は遅刻することが多く、ホームルームが始まっている教室に遅れて入っていった時など、「君のような人が大学入試に成功するはずがない」とたびたび言われた。他の先生に言われるとイヤミと取ってしまう言葉だが、藍澤先生の場合、我々のために言ってくれているのが分かるので『ハイ、ハイ』と素直に考えられるのだ。
 さきに述べた担任のタイプは、生徒にとってた易く見分けられる。中学生も小学生も、このことにはとても敏感である。私にとって幸運だったのは、高校2年3年という大切な時期に、担任を藍澤先生に持っていただいたことであり、現在、社会人として働いていられるのは師のおかげであると信じています。

「藍沢先生のやさしさ」
    飯田 国雄(元社会科)

 師走も末の日曜日、10月の一周忌にごあいさつのできなかった私は、藍澤先生の眠る富士霊園にお参りした。あいにくの薄曇りで富士山は望めなかったが、暖冬のためか雪もなく、7区1号2012番の墓地には、二つの墓石が穏やかな日差しのもと、静寂の中に並んでいた。一つの墓石には「藍沢家」の文字が刻まれており、他の一つには「陽一 昭和49年8月16日歿 38才、満 平成2年10月8日歿 49才」の墓誌銘があり、悲しかった。
 ちょうど先生が発病された頃、私の義兄も血小板の減少という同じ症状で通院し始めていた。専門的知識の乏しい私は、その時、血小板は正常の場合、1立方ミリ中に役25万個含まれ等々、多くのことを教わるとともに、病気についての助言を得ることができた。
 その後、先生が長い入院生活から、短い期間ではあったが学校に戻られた時、やむをえず病院へのお見舞いを自粛していた私は、早速、2階の英語科に先生を訪ねた。その時先生が私と会うなりおっしゃったことは、「義兄さんはその後いかがですか」という言葉であった。当時、義兄は幸いなことに、2度の手術をへて元気に職場に復帰しており、私は義兄の病気については、その時はまったく念頭になかった。先生はご自分の大病をさしおいて、他人のことを真心から心配して下さっている。そのようなお人柄に改めて感謝したのであった。
 先生のやさしさについては、もう一つ忘れることのできない思い出がある。昭和61年7月20日の夜、私のクラスの月岡君がオートバイ自己で夭逝した。その時も先生は押しつけがましいことは一言も言わないで、適切なアドバイスをなされるとともに、大森警察署や遺族のお宅を、私を励ましながらいっしょに訪れて下さった。
 先生のお仕事への取り組みについては、先生の学年に所属させていただいた私にとって、枚挙に遑が無い。私も小山台を昨春去って、今ふと思い出すのは先生と囲碁のことである。先生と碁盤を挟んで向かい合った回数は、必ずしも多くはない。しかしその中で印象深かったのは、私が小山台に着任した翌年の夏、山中湖での合同合宿のときのことである。霊峰富士の見える宿の一室で、昼の休みを利用して、音楽家の土屋先生と数学科の新納先生が組み、先生と私とが組んでリレー碁を一局打たせていただいた。2時間余りの熱戦は、幸い私達の勝利で終わったが、先生の慎重さをその時改めて感じさせられた。
 今、先生と私は幽明界を異にしているが、やがていつの日かまた、先生と語り、飲み、そして碁を打たせていただきたいと思っている。

「藍沢先生を偲ぶ」
    石井 良治(50年卒)

 私は、昭和50年に小山台高校を卒業し、大学時代の翌51年から約1年間OBとして野球班の監督をやらせていただき、藍澤先生が野球班の顧問をしておられた関係で、先生には在学中だけではなく卒業後も大変お世話になりました。
 当時の野球班は、OBの大学生が監督になって選手の練習から大会までの面倒を見ることになっており、そのOBが大学を卒業するまでに次の監督候補を見つける、というシステムをとっておりました。私の場合は、なかなか監督のなり手がいない頃で、暇そうにしていたのをたまたま前任の監督から目を付けらえた、という経緯があります。つまり、自分から進んで監督になったわけではない、ということです。
 先生の場合は、定かではないのですが、少し違っていたようです。確か私が在校中に先生は小山台高校に赴任されたと記憶しているのですが、先生は野球が好きだ、という噂が初めからありました。そのうち、野球班の顧問をやりたがっている、という噂になり(もちろ冗談ですが)、結局1年後か2年後には顧問になられたのだと思います。
 顧問に就任後、実際、練習・合宿によく参加していただき、見るだけではなく御自分で体を動かしてボールを追いかけていましたから、野球が好きなのは明らかでした。ただ、そういう際、先生は普通のトレーニングウェアを着ており、何故その時に我々は先生にユニホームを進呈しなかったのか、と今では悔いが残ることです。
 高校野球では、一般的に顧問の部長先生と監督との二人が試合のベンチに座っており、先生と私とはそのような関係にあったわけです。が、公式戦(私共クラスの高校野球では甲子園での夏の大会の東京都予選)には、実は先生はベンチには座っていなかったのです。
 先生は、御自分がベンチ入りするとその試合は負けるというジンクスを信じており、スタンドで試合を観戦しておられました。お陰様で、その大会は4回戦まで進出するという好成績を収めることができました。試合後の先生の談話が新聞に載っていましたので、当時の控えの選手で現在新聞記者をやっている秋保君に調べていただこうと思っております。
 余談ですが、公式戦を行うまでの間の練習試合は、確か全敗だったと思いますが、先生がいたから負けたわけではありません。実力の問題だったのではないでしょうか。しかし、全敗チームであっても公式戦となると勝ちたい気持ちで試合に望むものです。先生は我々のそんな気持ちを察して気を配られていたのではないか、と今では思います。
 私は1年で監督をやめてしまいましたが、先生が顧問をずっと続けておられ、野球班に愛情を注いでいたことは、毎年の年賀状で伺い知ることができました。先生は好きで顧問になった、などと不謹慎な事を申し上げましたが、好きであれだけの長期間(多分15年位ではないか?)に亘って出来るものではないと思います。先生には教育者としての情熱と選手たちに対する愛情が、確かにありました。私は、その熱意に応えられなかったのではないかと後悔してなりません。

「藍沢先生の鋭い指摘」
    瀬川 和彦(54年卒)

 藍澤先生には、英語のリーダーの授業と野球部長として、大変お世話になりました。私の個人的事情の為、この原稿の提出がかなり遅れてしまいましたので、当時の野球部の監督、先輩及び同僚による寄稿文で、藍澤部長先生にまつわる様々なエピソードが、すでに紹介されていると思います。
 藍澤先生には、対外試合、合宿には、いつもご同行戴きました。試合の時には、ベンチあるいはスタンドから、声援を送って戴きました。うちの内野の一塁への悪送球がブルペンで練習していた相手チームのエースピッチャーの頭を直撃して、救急車で病院に担ぎ込まれたり、試合前のノックのボールを口に当てて、血だらけになった外野手の手当てをして戴いたり、20点差以上も差のついた負け試合に最後までお付き合い戴いたり、その気苦労は並々ならぬものだったと思います。特に無鉄砲な生徒の学校外での活動中の怪我には、大変にお気を使われていたものと推測致します。
 秋季東京大会の試合中の事です。うちのチームが攻撃を終え、全員守備に散りました。主審がピッチャーの投球練習を終え、プレー再開を宣しました。その時、スタンドから応援に来ておられた藍澤先生が何やら大声で、キャッチャーに対し怒鳴っておられます。はて、何かな?と思ったら、キャッチャーが、キャッチャー面を付けておりませんでした。そのキャッチャーが慌ててベンチに面を取りに戻ったのは、いうまでもありません。その時私は確か内野の守備についていたと記憶しております。内野手、特にピッチャーも気付かず、主審も気付かず、何より当のキャッチャーも忘れていたという珍現象の中、スタンドの藍澤先生の鋭い指摘は、今でも私の頭の中に残っている次第です。
 藍澤先生には、試合となれば日曜、祝日に関わりなく我々野球部員にご同行戴き、先生の心配には全く無関心んび野球と遊びに没頭する、我々生徒達を暖かく見守って戴きました。先生より賜った多くのご厚意に対し、心より感謝申し上げると共に先生のご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
 藍澤先生、本当にありがとうございました。

「一緒に飲んだ牛乳」
    小松 茂雄(55年卒)

 藍澤先生が亡くなられたことを野球班OB会の会報で知った。悲しかった。
 先生には在校中の3年間野球班でお世話になった。英語の授業や学級活動では一度もお話ししたことはない。
 野球班に入ってすぐ、フリーバッティングの練習中、ものすごいライナーが私の目の前を通りすぎた。私は本能的にボールを避けた。隣でゴッンいう鈍い音がした。横を見ると球友が倒れている。ボールが右脳を直撃したらしい。左半身にしびれがきて感覚がない。藍澤先生がすぐに駆けつけてきた。「おい、君、手を貸してくれ」と先生に言われ、2人で球友をグランド脇へ運んだ。少したって救急車が到着。「君、一緒に乗っていってくれないか」と言われ、私と先生と保健の斉藤ちよ先生と3人で救急車に乗り、旗の台の脳神経外科へ直行した。車内で先生は球友の安否を気づかい、「目は見えるか」「左がしびれるのか」など、心配そうに球友を介護していたのが印象に残っている。球友はそのまま入院。私は先生に頼まれ、球友の荷物を自宅まで届けた。退院後、球友は野球をやめたが、「藍沢先生には世話になった」と私に話していた。
 2年生の夏休み、今度は私が野球の練習中頭にデッドボールを喰い倒れた。古いヘルメットでスポンジが付いていなかったためもあるが、本当の理由は徹夜麻雀にあった。昨夜からほとんど寝ていなかった。目の前がまっ黄色で意識がなく、少したって目を開けると先生の顔があった。「大丈夫か?病院へ行こう」先生はそう言った。私は必死に拒んだが受け入れてもらえなかった。「万一の事があったら、親御さんに申し訳ないから精密検査だけでもしておこう」先生はそう言って私をタクシーに乗せた。到着したのはあの旗の台の脳神経外科だった。CTスキャンや脳波の検査の結果を待っている間、先生は私に牛乳を買って来てくれた。待合椅子で牛乳を飲みながら先生は言った。「小松とこの病院でこの椅子に座るのはこれで2度目だな」。
 私は先生に済まない気持ちでいっぱいだった。幸い脳に異常はなく先生も安心したようだった。
 それから一週間後の日大桜丘との練習試合中、相手にスパイクされ5針縫った時も、先生に自宅までタクシーで送っていただいた。「コマツは本当によくケガをするな」と言いながらも、私の両親に「本当に申し訳ない」と言って謝られ、母親は恐縮して何も言えなかったことがあった。私はこの時、藍澤先生は本当に親切で責任感の強い人だなあと実感した。
 3年の最後の試合を終え私達は引退した。大学に進学せず家業の床屋を継ぐ事に決めていた私は、夏の合宿にも参加した。合宿所のある高萩へ向かう列車の中で先生は言った。「小松は現役でもないし、OBでもなし、難しい立場にあるのだけど、小山台高校の生徒であることは忘れないでほしい。酒はやめてくれ」
 合宿の夜はOBたちが集まって酒盛は常である。当時の私は劣等生であったため、酒の味も知っていた。
 しかし、飲めなかった。先生を裏切ることはできなかった。OBたちとはジュースで乾杯した。
 合宿最終日の昼休み、先生に呼び止められ、野球場の前にある菓子屋に行った。先生は3時の休憩の時、班員に飲物を御馳走するため注文に来ていた。数千円のお金を店の人に払いながら「小松、3時になったら一緒に運んでくれないか」と言い、別に買った牛乳を私に差し出した。「一緒に飲もう」。「ありがとうございます」と私は答えた。店の前の石段に腰掛け、ふたりで牛乳を飲んだ。
 「小松、合宿手伝ってくれてありがとう。約束守ってくれてありがとう」と先生は言った。あとは何を話したか覚えていない。この数分間が今頭の中をめぐる。
 藍澤先生と飲んだ2本の牛乳は忘れることのできない白い記憶なので。


「後記」
 私どもが次にお示しするような「お願い」を致しましたところ、多くのかたがたからご賛同ご協力をいただき、このような冊子を作ることができましたことを、心から感謝申し上げます。
 なお、本来は教員のみに呼びかけるつもりでおりましたところ、何人かの卒業生のかたもこの企画をお知りになり、参加して下さいましたので、喜んで加わっていただきました。
 このようにして、ささやかながらも心のこもった冊子ができあがったことを大変うれしく思っております。


「お願い」
 いよいよ秋らしくなってまいりました。皆様にはお元気にお過ごしのことと拝察申し上げます。
 さて、昨平成2年10月8日に藍澤満先生が亡くなられてから、はや一年が過ぎました。この間、私どもといたしましたは、長年にわたって誠実に熱心に小山台に勤められ、若くして亡くなられた藍澤先生、ならびにご遺族に対して、どのようなことを致したらよいかを考えて参りました。いろいろ話し合いをしているうちに、1年がたってしまいましたが、このたび、生前藍澤先生と親しく接し、また、共に小山台に勤めてきた私ども有志で、次のような計画をまとめました。
 もし、この趣旨にご賛同いただければ、ぜひご協力いただきたいとお願い申し上げる次第です。


- 記 -

1.故藍澤先生についてのエピソード、思い出など、どんなことでも結構ですので、お書きいただく。用紙、語数など一切制限なし。お寄せいただいたものを小冊子にまとめてご遺族にさし上げる。
2.小冊子作製のための費用。ご遺族に対する私どもの気持ちを含め、一口3,000円をお願いできればと思いますが、お志ですので、千円単位で一口より多くても少なくても結構です。いただいたものは小冊子作成の費用に当て、残額はすべてご遺族にさし上げ、有効に利用していただく。

平成3年10月8日

 有志代表
   東京都立小山台高等学校
     元校長  下河原五郎
     全教頭  小泉 周雄
     前校長  毛利 順男
     校長   伊藤 久雄
     教頭   和田 吉司
     前事務長 吉川 幸雄
     事務長  真保  孝
     英語科  直井 銀治
          小山 晃三
          田中 和子



関連項目

着任:1973年 4月 1日
退任:1990年 3月31日



関連事項

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脚注: ・

2023年12月24日:直近編集者:SGyasushi
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