大岩 誠
大岩 誠(おおいわ まこと、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。都立小山台高校化学教諭
本校歴
- 1944(昭和19)年 7月14日 都立第八中学校理科教諭として赴任
- 1948(昭和23)年 4月 1日 学制改革(新制高等学校制度)により、東京都立第八新制高等学校となる
- 1950(昭和25)年 1月28日 校名を東京都立小山台高等学校と改称
- 1970(昭和45)年 3月31日 都立小山台高校を退任
記事
40周年記念誌_P72_大岩誠_工場動員の頃
「工場動員の頃」
大岩誠
終戦後既に18年、今や先妻の痕跡はどこにも見受けられない。学園も平和そのもので、学徒は日々孜々として学業に励んでいる今日に、いまさら戦争中の悪夢をよみがえらせるのも非情の業かも知れないが、八中・小山台40年の歴史の一齣としてやはり抹消することはできないと思われる。あの時代を想起してこそ、平和を祈念する意義が明らかになるのではなかろうか。
私は昭和19年7月に前任校から当時の都立八中へ転任になった。カーキ色の国民服、戦闘帽に巻脚絆の扮装で、校庭の朝礼台から新任の挨拶をしたのも時代のさせた業であった。
当時、既に第3学年以上は工場に動員させられ、学校に残って授業を続けていたのは第2学年以下であった。戦争の雲行はいよいよ険悪となり、第2学期からはこのいたいけな2年生までも学業を廃し、それぞれ軍需工場に動員され学徒工として働かされる事に決したときは、真に手塩にかけた愛児を奪われる親の悲しみにも似て、これらの生徒の将来は如何になるものか暗澹たる思いに沈んだのであった。
校長室では、配属の工場代表者と学校当局の間で就業の条件が協議されていたが、せめて毎日一時間位は我々教師が巡回して、講義を続けてやらたいというのが念願であった。特に痛恨に堪えなかったのは某工場に動員された早川嘉雄君は、老朽した工場設備のため、高圧線に触れ殉職した事があった。まことに痛ましい戦争の犠牲である。講堂で学校葬が行なわれ、中島校長箱島生徒代表等の声涙ともに降る弔詞が捧げられ、講堂寂として声なくひそかに戦争の惨害をのろわざるを得なかった。
一方、後者の3階全部は、海軍艦政本部で使用することになり、1階物理、化学実験室はともに学校工場となり、虚弱生徒を集め航空機の部品製造へ従事させた。遂に5月23日には講堂および体操場が被爆炎上、8月15日の終戦を迎えた。
生徒が懐かしい母校に復帰し、学業に専念することができたときの喜びはどれほどであったろうか。当時の生徒が、このブランクをりっぱにうずめ社会の各方面で活躍しておられる様を見聞きするたびに、うたた今昔の感にたえない。
(本校理科教諭)
参考情報
関連項目
- 着任:1944年 7月14日
- 退任:1970年 3月31日
関連事項
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脚注:
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2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223175606