八乙女盛典

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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八乙女盛典 先生 (高6回卒業アルバム)

八乙女盛典(やおとめ せいてん、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。都立小山台高校物理教諭

本校歴

1949(昭和24)年 4月30日 都立第八高校物理教諭として赴任
1950(昭和25)年 1月28日 校名を東京都立小山台高等学校と改称
1967(昭和42)年 7月31日 都立小山台高校を退任




『私の歩んだ道』


  『私の歩んだ道』 八乙女盛典


 <まえがき>
 最近世間では自分史を書くということが一つの流行となってきて、書店などでも自分史に関する解説書や記入式ノートなどが販売されるようになった。
 これらはおそらく平均寿命が世界一の長寿国となり、第1または第2の仕事も終わり、生活が精神的および時間的にゆとりを生じ、この辺で過去を振り返ってみようという気持ちを持つ人が増加したためではないかと思われる。
 私も古希が過ぎ、第2の勤めも無事終えることができたので、この時点で過去の人生の一部をまとめて書き残しておきたいと考えた。自分史である以上形式は市販のものにとらわれず自分流に作り、特に私がどうして理科系の進路を選び理科の教師の道を歩んだかを中心としてまとめてみた。したがって家のことについては必要最小限に記述した。
 家族、家庭のことはプライバシーに属するので記述を控えたが、成長に対する環境の影響も大きいので、私の幼少期から成人するまでの過程での、主として父の影響などは無視することはできなかった。更に多分に懐古趣味的ではあるが、環境を表す目的もあって幼少期に育った我が故郷(大井町)での思い出を付け加えた。
 なお、文中の年月日、地名などについては戦災、転居などにより種々の記録が失われているので私の記憶により記述したものが多く、誤りも多々あると思われるが、今後正しいことが判明すれば機会を見て訂正したいと考えている。また読者の記憶にないことも多々あるのではないかと思われるが、資料的価値がると考え、記録を確かめることができるものは可能なかぎり正確を期した。昔のことなどを懐かしく想起していただきたい。
 なお、この自分史が完成したのは、私の勤務先の同僚であった小菅先生の絶えざる励ましたとご援助のお陰である。先生は多忙な勤務の中で面倒なフロッピーディスクの作成を、すべてお引き受けくださった。ここに熱くお礼申し上げる。
   1996年 世田谷にて


ファイル:八乙女盛典② 『私の歩んだ道』目次4.jpg
 前回の出版以来、晋資料の発見もあったので前版に加筆するとともに、誤植、年月日の誤りも修正し、より正確充実を期した。
 また、今回の増補改訂版の作成およびそのCD-ROM化について、東京都立小山台高校7回生、佐島聡夫氏(東京工業大学卒、現有限会社計装プラザ代表取締役)の多大な努力と細部にわたるご検討ご注意により、完全な形に仕上がったことに心より感謝申し上げる。
   2003年夏 世田谷にて


 <目次>



 <<<< 略 >>>>


 <第Ⅱ編 高等学校教師として>

Ⅰ.東京都立高等学校教師として
 1.都立小山台高校時代
  1.1偶然縁のあった小山台へ
 昭和23年3月卒業するときに就職を考えたこともあった。ちょうどそのときに先生から、奈良教育大に助手として勤めないかという話があった。しかし、私はその時点では大学出身ではなく、将来性が不透明であることと、私の親戚、兄弟、知人も関西には一人もいないので、元来健康に自信のない私にとっては一人奈良で生活することは不安であった。
 これら2つの理由で辞退したが、幸いに友人市川米太氏(同君は奈良で学位(理博)を取得し奈良教育大学教授、付属図書館長になったが平成2年に病没された)が引き受けて奈良へ赴任してくれた。
 私は勉強を継続すべく研究科に入学し、昭和24年3月に修了した。このとき先生から、教育大付属高校に就任してほしいので他への就職はかんがえないでほしいとという話があった。

 卒業と同時に付属学校へ就職することは、当時としては名誉と考えられていたので、喜んでこの決定を待っていたが、当時文部省の予算がうまくいかず、付属の人件費が予定より削減されて私を採用する枠がなくなってしまった。止むをえずしばらく様子をみていると、5月半ばに、私の同級の三科君(陸軍士官学校から終戦と共に高師に編入学)が、自分の出身母校である都立小山台高校(旧制東京府立八中)で、物理の先生を一人探しているからいってみてはどうかという話を持ってきてくれた。
 府立八中という学校は私の兄の卒業した学校のため、私は幼少の頃に兄の運動会などで何回も行ったことのある学校であったので、少しは馴染みもあった。早速高師の幹事(教授会代表者)の池本、印東両先生の推薦状をいただいて小山台高校へ出向き、学校長岩本実次郎先生にお会いしたところ、直ちに就任するよう命じられ、翌日の5月16日から都立小山台高校(辞令では、東京都立新制第八高等学校)に正式に奉職することになった。
 着任した初日の朝礼において、ハプニングが生じた。
 どこの学校でも通常新しい教師が着任すると、全校集会(始業式または朝礼など)で学校長から全校生徒に紹介することになっている。ところが私にとっては幸いなことに、学校長が朝礼の際に私を紹介することを忘れてしまった。大勢の人の前に立って挨拶することは私が最も苦手とするもので、私は内心大変うれしく思ったが校長先生は大変申し訳ないと言って、私の担当する初めての授業ごとに各教室で受講生徒に私を紹介してくださった。

 また、着任第1回目の職員会議で改めて全職員に学校長から私を紹介された。その折私は初めて全先生と顔を合わせたが、その中に兄が本校に在校していた折の恩師(大伴(英語)、数学(高輪、赤沼、崎谷)各先生など)が何人もお元気で勤められているにはびっくりした。また、それらの先生からは親しみを込めてご指導ご鞭撻いただけ、安心して勤めることができたことは非常に幸運であった。
 これから18年間に亘って思う存分自分の力を発揮でき、小山台高校のような優秀な学校で教師としての基礎を堅固なものとして確立させることができた。この点で学校(教師と生徒)に対して一生感謝の念を持ち続けている。

  1.2 校務の思い出
 教科指導に直接かかわりたいと考え、小山台在職中の多くの期間を教務部に席を置かせていただき学校全体の動きにも精通できた。理科の教師としては自分の科目の準備室(研究室)に席を置いて、実験その他の教科指導に常に対応できる状態にあるべきものであるが、私は大部分の年限を教務部の位置におり、物理科の咳には数年しかいなかった。
 教務の仕事の中で特に苦労したことを挙げると、時間割の作成であった。この学校には時間講師(非常勤講師)が多数おり、更に各先生の研究日、教科の特殊性、選択科目の人数調整に加えて、各先生の週間時間配当の均一性などなど条件が極めて多く、これらをすべて満足させることは不可能であるが、極力多くの条件を満たすように努力することが係の責任であり、また腕の見せ処である。
 ある年講師がなかなか決まらず、春休みの職員旅行中の列車内まで仕事を持ち込み、更に帰京してからも一晩徹夜してもうまくゆかなかったが、私一人の研究日を放棄して最大限条件を満足することができた。このようにしてこの年1年間を研究日なしで過ごすことになった。時間割作成者は多かれ少なかれこのような苦労をしている。
 また、職務部員の座席の列にはたまたま落語の好きな人が並び、その端に学校で最長老の数学の先生がいたので、この先生を大家とし、同じ列の人々を長屋の店子とみ立てて落語長屋と呼んで楽しんたことが懐かしく思い出される。

  1.3 学校長の思い出
 着任から順に岩本実次郎、斎藤清、上原好一、木村武雄の4代の校長に仕えたが、各先生ともそれぞれに特色があり、特に斎藤校長は個性が強く、人の好き嫌いが強かった。毎日出勤が早く、出勤すると校長室ではなく大教員室の中央の席に座り、通常の時刻(始業以前10ないし20分)に出勤してきて「お早うございます」と挨拶すると「今来て何が早いか」と嫌味を言ったりした。私が文句を言って以来校長室に入り大職員室には現れなくなり、皆から大変喜ばれた。なお、校長室には黒帯の柔道着が吊るしてあった。
 ところがこの後、私が結婚するにあたって、一応形式的ではあるが仲人を快く引き受けて頂いて、その少し後に斎藤校長は満60才の還暦を迎えられ、そのお祝いを自宅で行った。小山台の中には校長と非常に親しく高い評価を得ている先生も何人かいたので、この祝いの席には必ず招待されているものと思って出席してみたところ、小山台関係者で招待されたのは私共夫婦のみで、外はすべて親戚ばかりであった。
 なおこの際、斎藤校長が特に好んでいたハワイアンギターによる音楽のレコードをお祝いに差し上げた。この時以来斎藤先生とは家族共々お付き合いするようになった。
 次代の上原好一校長には、進学指導特に補習科の運営に関して大変なお世話になり、特に親しくしていただいた。また、私に管理職試験の受験を非常に熱心に奨められたが、私は性格上不向きであるので一所懸命お断りして、ようやく了解していただいた。
 次の木村武雄校長とは特に親しい間柄ではなかったためか、私の転任については直ちに了承され特に引き留められることはなかった。木村校長は私の転任と同時に年令60才により退職された。
 その次に来られた伊藤校長は、私をとめずに簡単に私の転任を認められた前校長のことを大変不満に思っておられた。

  1.4 授業の思い出
 授業そのものはカリキュラムと教科書に則って行えばよく、教育実習や教授の代講などで慣れていたので特に心配になることはなかった。しかし有名大学進学率の高い高校だけあって人物、学力共に優れた生徒が多く、教える側にとっては相当な学力がなければ十分な講義はできないので、学生時代に十分な学習努力をしていなかった若い先生は苦労したことと思われる。
 特に私の記憶に未だに残る忘れ難い授業と生徒について書き留めておきたい。
 昭和24年すなわち私が就任最初の年、2年生のある講座でのことである。階段教室で行われた講義で、最前列の席を占めた7.8人の生徒が鞄を机上に置き、教科書もノートも出さずに講義を熱心に集中して聴いていて、ときには良い質問をする。ただ熱心意ノートをとっている生徒よりむしろ望ましいので、特に注意することもなく過ごした。
 しかし気になるのでこの中の二三の生徒を呼んで聞いてみると、我々は予習も十分し前もってそのときの授業の内容は理解できているので、先生がどこかで誤らないかという点に注目して講義を聴いているという説明であり非常に驚いた。さすがに前から聞いていた通りの優秀な生徒が多い学校であることが確認できた。
 このような生徒にとっては、高等学校の普通のレベル(学習指導要領に示されている)の講義では満足できず、例えば微積分を用いなければ無理な内容についても、数学を十分に用いて説明、計算が要求された。よく聞いてみると、これらの生徒は当時数学の先生を中心として「解析概論」(高木貞治著)を輪講していたようで、大学レベルの数学を用いることに特に抵抗はなかった。したがって、これらの生徒に対しては量子学の入口まで授業でとり上げたこともあった。
 参考までにこれらの生徒諸君の氏名と進学大学名(すべて現役)を列挙しておこう。
 南雲道彦(東大)、岸田英明(東大)、高橋武司(東工大)、鈴木卓爾(東大)、等松隆夫*(東大)、武下昭*(東大)、大須賀立美(東大)、牧田貢(東大)  *印は残念ながら平成7年の時点で故人
 これら諸君の大部分は、大学合格発表直後揃って拙宅に合格報告とお礼の意味で訪ねてくれ、いまでもそのときの感激を忘れることはできず、教師冥利に尽きるといえよう。
 この学年以降も優秀な生徒は毎年多数あるが、前記生徒を凌ぐ生徒がめったになかったことは多少残念であるが、私が小山台高校を去るまで、この高校は全国的にその評価は高かった。私も生徒の期待と要望に沿うべく勉強・研究に夢中になり、これ以後の教師としての基礎が作られた。

  1.5 クラブの思い出
 当時小山台高校では部のことを班と言った。私は就任直後物理班を担当させられ、しばらくして物理班とラジオ班との両方担当させられたが、途中でラジオ班の指導がむずかしくなり、これは物理科でラジオに詳しい氷見先生に移った。
 物理班には常に物理に関して優秀な生徒が大部分であり、次に述べるようにきわめて高度で優秀な成果をあげることができた。
 これについては、私の努力もあるが、生徒の熱意がすばらしく、更に大学の研究室(私と教育大の関係および東工大と卒業生の関係)が極めて密であり、更に外部企業などの援助に負うところが大きい。
 この点は他の高等学校には見られない小山台高校の特色であったと思う。毎年のすべての内容を記すことはできないので、特記されるべき大きなクラブの研究実績をいくつか挙げておきたい。

   1)放射線係数回路の作成
 計数管(GM管)は東京教育大学で作成してもらい、そのアンプと電源(ネオンランプを多数直列にした安定電源を用いる)とを工夫して作成した。この装置は教育大学学園祭ににおいて、原子核研究室の実験に小山台高校物理班出品として展示および使用に供され、大学関係者から注目された。
 なお、この電源装置には高電圧(DC1000~1500V)を用いるので、作成した初めには私がテストしてみたところ、手で触れてもよい部分に電圧が加わり、非常に強く感電して気を失いそうになった。すぐ点検修理して安全を確認の上生徒の実験に供した。はじめから生徒にテストさせなくて良かった。

   2)拡散型霧箱の作成
 当時高校の物理ではウィルソンの(断熱膨張型)霧箱のみしか扱わず、大学でもまた拡散型はほとんど実用になっていなかった。小山台では、フィジカルレビューの論文に従って、直径20cm、高さ15cmのガラス円筒を用い、底面の金属板をドライアイスで冷やし、エチルアルコールの過飽和蒸気により放射線を常時観測できるようにした。
これにより宇宙線の飛跡なども鮮明に見ることができ、文化祭の展示として好評であった。これは、教育大で放射線の連続観測用として作成したものよりも早く完成成功した。

   3)X線の研究
 高校にある物理用X線管は旧式であり、ただ単にX線を発生させるだけのものであったので、X線による回析・干渉の研究に適切なX線管の作成を研究し、教育大の技官内田氏(ガラス細工の権威)に依頼して、種々修正してもらって作成したが、これを担当していた生徒(甲田常雄君)が卒業してしまったのでこの研究は中止してしまって残念であった。
 なお、これらは当時ガリ版すりの研究報告書としてまとめたが現在手許に無いのが残念である。

   4)ホバークラフト研究
 当時社会では会場用に抵抗の少ないホバークラフトが注目され研究が世界的にも始められていた。物理班においてもこれに注目し、先ず基礎研究からはじめることにした。
 図のようにゴム動力を用いた送風機からの風を、大きく拡げた水平な円形翼の下へ流し、下の面(床)との間の圧力で機体を浮かせる。このとき翼の下の圧力分布測定法を開発して測定した。これには東京工業大学の研究室の協力をいただいた。
 始めはゴム動力を用いた小さな軽いものから作成し、次に模型飛行機用のガソリンエンジンを用い人間が乗ることのできる長さ3m、幅1mのものを作り、校庭で走行させるのに成功した。これは全国の大学、高校で初めての成功であると思う。日本では実社会でもこの時代(昭和30年後半)ではまだ成功していなかった。
 しかし、このエンジンは消音器を着けていなかったので、非常に大きな騒音のため学校内での走行は禁止されてしまい、これ以上の改良研究は行えなくなった。
 この研究の中心となった生徒(吉田君)は、世界数か国(ソ連、フランス、イギリス、アメリカ)の航空会社にホバークラフトの資料を請求したら、各国から資料のパンフレットが送られて来た。更にフランスの航空会社(多分エアーフランスであったと思う)からは自国のホバークラフトのソリッドモデル(長さ約30cm木製)を贈られた。


   5)ロケットの研究
 日本で実験的にペンシル型ロケットが開発されていた時代のため、我々も手作りでペンシル型固体燃料のロケットを作製することになった。鉄製の本体は旋盤で削って作り、燃料は黒色火薬を主体とし、燃焼実験と水平発射実験を校庭で行った。打ち上げ実験は適当な場所が校内には無かったので行えなかった。
 この研究には東京工業大学の岡本哲史研究室(ロケット工学)の援助もいただいた。この実験で最も苦労したことは、安全確保であり、この点に相当神経を使った。

  1.6 良き時代の師弟関係
 昭和24年から28年くらいまで、すなわち私が就任してからの数年間は私と生徒の年齢差は少なく、子弟というよりは兄弟に近い関係であった。また、生徒も授業の思い出に記したように、受験などに余り制約されずに好きな学習とクラブ活動に熱心なものが多かった。そのような状況で私と生徒の個人的なつながりも多く楽しい時代であった。以下いくかの思い出に残る例を年代順にあげてみよう。

   1)音楽トリオ
 昭和25年の2年生であった等松君(故人、東京大学助教授 地球物理学)は小学校時代から個人的に東京芸術大学(旧上野音楽学校)の先生にピアノの個人レッスンを受けていてピアノ科の学生以上の実力であった。また彼の同学年の南雲道彦君(後、早稲田大学教授)は当時バイオリンを独習していた。
 私とこの2人とは住居も近く、私は両君にチェロをやるように勧められたがとても自信がないので断ったが、私とこの2人は何れも寺田寅彦が好きで尊敬していた。寺田さんの場合には弟子2人(坪井忠二、藤岡由夫)と3人でピアノ、バイオリン、チェロの演奏を楽しんだことに因んで、我々もこのようなことをしたいということが、2人の生徒の願いであり、私にチェロを勧めたのであった。これが成立しなかったのは残念であったが、両君の家を私が訪ね、3人でクラシック・レコードを聞いて楽しんだ。
 因みに、等松君は東大教授で地震学の権威、坪井忠二氏の甥であった。また彼は東大教授の永田武氏(国立極地研究所長)と共著で初めての専門書「超高層大気の物理学」(裳華房刊)を著し、私に贈って下さった後間もなく病没された。ご冥福をお祈り申し上げる。

   2)オーディオ製作
 前記2人と同クラスの和田伸彦君(後、名古屋大学講師)と根本泰典君とはラジオ班にはいっていてオーディオについて非常に詳しく得意であり、私のオーディオ装置を製作してくれた。そのときは休日毎に私の家で1日中作業をしてくれ、すばらしい装置が完成した。なお、和田君は、いわゆる低温核融合を検証した(?)実験の件で新聞報道された。

   3)模型鉄道マニア
 昭和26年の2年生の田口達也君は模型鉄道の製作が趣味で多数の模型(主として電車)をもっていた。そのなかでも湘南電車(上半分オレンジ色下半分グリーン)の模型は実物そっくりで、警笛を自由に鳴らせ、また何時でも自由にドアーが開閉でき、信号も列車の進行に応じて点灯(青・黄・赤)できるように作られていた。
 ある日学校の帰途私は同君に誘われて同君宅へ行き、これらの模型を走らせて楽しんでいたところに、父親が会社から帰宅した。息子が勉強せずにまたまた模型で遊んでいると思って注意しようと思ったところ、私と一緒なので注意もできず、私に挨拶しただけで引っ込んでしまった。
 因みに、この父親は外国語大学出身で当時キャノンカメラの技術部長で、メカにも大変詳しい人であった。

   4)オートバイとオーディオ
 昭和27年2年生の佐島聡夫君の趣味はオーディオであったが、大学進学後オートバイが趣味に加わった。それも小さいものでなく、白バイと同じハーレーに乗って田園調布の家から私の家をしばしば訪ねてきた。夜大きな音を出すオートバイのため隣家から文句を言われる程であった。
ある日同君の家にオーディオ(総統に凝って設計されたもの)を聴くようによばれたので訪ねてみた折、玄関に出てきた母親が息子の友人と間違えるということがあり、先生とわかって大変恐縮していた。同君の助言によって私のオーディオも改良してみた。

   5)物理班
 昭和28年2年生の林寛君(後に橋本に改姓)はクラブ物理班の当時の中心となって大活躍をしてくれた。物理が非常に好きで勿論実力も十分で、卒業と同時に東京教育大学物理学科に進学した。クラブでの付き合い以来私の家にもよく訪ねてくれ、私の子供にもよくしてくれ、同君の結婚の際は祝辞も述べた。因みに、夫人は東京女子大学数学科出身の才媛であった。
 同君は大学卒業後日本電子K.K.に入社して電子顕微鏡の開発に従事し、我が国電子顕微鏡の有数の権威であったが、現在は自分で会社を経営している。
 以上のように先生と生徒という以上に、友人同士に近い関係でお互いに遠慮なく付き合う状態が続き、若い教師の最も楽しい良い時代であった。

  1.7病気と研修所
 就任間もない昭和26年の学校での集団X線検診により異状が発見され、更に三楽病院において精密検診を受けると結核であると診断された。
 治療法として当時は人口気胸法(肋膜と肺との間に空気を注入して、肺の病変部分を圧縮して活動をおさえる方法)が流行し、それ以上は肺の切除であった。私は学生時代に湿性肋膜炎を患ったことがあり、此の時の肋膜の癒着があり、気胸(畳を縫うほどの太い針を差し込み激痛あり)をしてみたが空気が入らずに中止した。
 当時は効果的な内服薬もなく、栄養といってもまだ食糧事情はよくなく、絶対安静を命じられ自宅で1か月以上病床に伏していた。食事も布団の上に上半身起きてするような状態であった。学校には非常に迷惑をかけたが、学校長岩本先生がわざわざ見舞いに来て下され、後に物理化学の先生全員で、更に物理の先輩である氷見先生のお見舞いをいただいた。
 その後しばらくして改めて結核予防協会で診察を受けてみると、ここでは私のような軽度の状態では仕事を休む必要はないと診断された。三楽病院のX線撮影技術の程度を大分批判され、私はすぐ翌日から出勤できることになって、私も学校も大変喜んだ。これから以後は極めて元気に勤務できた。
 ところが、昭和32年の集団検診でまた「異状あり」と診断され、東京都教育庁保険課での精密検診の結果「要休養」と指示され、同年9月1日より11月30日までの3か月間東京練馬区江古田にある研修所(練馬病院内科入院病棟の中の1棟)に入所させられることになった。再度学校に迷惑を掛けることとなるので保健課(杉下医師)に出向いてこの指示を極力撤回してくれるように交渉したが成功せず、ついに入所させられた。
 入所後直ちにX線検診を受けたが、ここの病院の判断では入所する程の必要にないという結果であった。しかし、この結果によっても保健課の判定は不変で、やむを得ず3か月間休養することになった。1室4人で私の同室は小学校の先生3人(中2人校長)で高校は私1人であった。
 多くの人々は私より病状が悪く、ストレプトマイシンの注射および内服薬(パラアミノサリチル酸カルシウム・略称パスカルとヒドラジット)を服用していたが、私は内服薬のみ服用していた。
 毎日の生活は規則正しい(徽章6時、消灯9時)が極めて退屈であり、読書とラジオで過ごす日々であり、たまに集会室でTV(9時に消灯後(9時~10時)来日したカラヤンとウィンフィルの演奏会でベートーベンの第5交響曲があったので、この時だけは夜10時まで見る許可が出た)を見せてもらうことがあった。ちょうど入所している間の10月4日に人類初の人工衛星スプートニク(ソ連)が打ち上げに成功し地球を周回するのが晴れた夜空に明るくはっきり見ることができたことが唯一の大きな思い出となった。
 なお、この研修所内の単調な生活に何か変化をつけるべく、所内でのミニ新聞を作って発行してみた。
 また、食事は毎回米(希望すればパン)が主食であり、病気の性質上栄養を十分とる必要があるので比較的副食もよかったように思ったが、これで不足の人々は勝手に外部で購入したものを食べていた。私は1人で2人分くらい毎日食べさせてもらっていたので、私の食べる状態を傍らでみていると自然と食欲が出るそうでまわりの人達に喜ばれた。冗談ではあろうが、私が出所(退院)したら食堂での米の使用量が減少したなどと言われた。私自身食べ過ぎて1階の食堂から2階の病室まで這うようにして戻ったこともあった。
 ここに入所していて1つ大きなある事を経験した。それは入所して初めての1週間は食事時間を除いてはほとんど一日中眠っていたことだった。その結果過去のすべての疲労が完全に除かれ、体全体が軽く新しくなったように感じた。すなわち、我々サラリーマンの生活の疲れを完全になくすためには、1週間の完全な休養が必要であると考えられる。
 11月末日出所するときは、病院の門の所に入所していた先生の大部分と研修所のナース、主任看護婦、病院の婦長と主治医とが並び、万才三唱して送って下され、甚だ恥ずかしかったが嬉しかった。このようなことは病院、研修所では前代未聞のことであった。
 これから学年末まで学校では軽業ということで仕事量(受持講義時間数)などを減少していただいた。

  1.8卒業生との関係
   1)同期会と同窓会
 小山台高校はこのような会は大変熱心に行われており、すべての会に出席するのは難しいので、種類によってある程度のウェイトをつけて出席している。
 先ず、卒業時に担任であったクラスのクラス会(昭和36年卒、昭和41年卒)および学年の同期会(8クラス全体)には極力出席している。次には自分が授業を担当した学年の同窓会で招待されたもの(昭和26年卒、昭和27年卒、昭和31年卒)になるべく出席する。また、学校全体(旧制府立八中、新制都立小山台高校)の同窓会にもなるべく出席している。この全体の同窓会には旧職員も多数出席し、あたかも旧職員の同窓会の感がある。
 このような各会に出席してみると、卒業生諸君が在校時の面影を残す者も全く変わって見える者も何れもが立派に社会人として大成し、立派になっているのが非常に嬉しく感じ、そうなっても我々に敬意や親しみを持って接してくれることに教師としての幸せを感じる。また、このような会に出席することによって卒業生や旧職員の情報交換ができ、近況も知ることができ好都合でもある。勿論これが会の大きな目的となっている。

   2)量子力学ゼミナール
 小山台時代物理班で活躍し、昭和29年に卒業した中の数名の大学生(東大、東工大、早大)が集まって量子力学の勉強をしたということになり、懐かしい母校に集まって私の指導を受けたという申し出が昭和31年頃あった。
 そこで2階の教室を借り、毎週土曜日の午後1時から3時の間の2時間、量子力学のゼミナール(輪講会)を行った。テキストは朝永先生の量子力学とシッフの量子力学を用いた。これは1年間続けられ、その後各人の大学の講座時間などの都合で終止した。この途中でお茶の水大学の小川助教授(哲学)も参加を希望されたので一緒に行った。理由は、現代の哲学をベきょうするには現代の物理学、特にその根本である量子力学の考え方を理解する必要があるという趣旨であった。
 このときの教室は2年生の教室であったので、月曜日に現役の2年生が登校してみると黒板に量子力学の方程式などが沢山書き残されているのを見て驚きもしたが、彼らの勉強の刺激にもなって、かえって良かったのではないかと思った。
 私も教師になってからもこのような機会を活用して、量子力学も忘れることなく勉強することができ、これが授業においても十分役立った。なお、このとき参加していた諸君も、それぞれの大学でこの後正式に量子力学の講座があって勉強したはずである。
  *小山台高校の最後の数年間は補習科を中心として活動したが、これについては項を改めて記す。

 (付表)校務分掌
 昭和24年度から昭和33年度
 図書部、教務部、校務書記など(担任なし)
   昭和34年度 2G担任、教務部
   昭和35年度 3G担任、教務部
   昭和36年度 補習科(係)
   昭和37年度 補習科(係)
   昭和38年度 補習科(主任)
   昭和39年度 補習科(主任)
   昭和40年度 3C担任、進路部
   昭和41年度 1G担任、進路部

Ⅲ大学受験指導に関係して
 1.都立小山台高等学校補習科
  1.1 設立趣旨
 卒業生が現役で大学受験に失敗した場合、その後の指導については外部の予備校などに任せるより、本人のことを一番よく知っている本校の先生が指導する方が効果も上がり、経済的にも負担が軽くなることから、本校卒業生の1年間に限って指導する主旨で昭和33年に設立された。
 これは当時の校長(斎藤氏)とPTA会長(三菱化成会長、都教育委員柴田周吉氏)により設立され、鵜川氏(桐蔭学園理事長)と川又氏を中心として昭和33年4月より運営を開始した。

  1.2 運営
 初年度は教室も小さく生徒数は50名程度であったが、年毎に実績が上がるにつれ増加し、新しい教室が使用される状態になったときには最大150名を越えてしまった。
 経費は独立採算制とし、生徒からの授業料収入により運営した。授業料は外部予備校の1/10程度のため、人数が少ない開設から3年間は赤字であったが、人数の増加につれ赤字はなくなり、昭和36年には黒字に転じ安定した経営ができるようになった。
 黒字になった場合の利益については、補習科が校舎および施設、設備の一部を使用し、光熱費なども使用しているので、種々の形で学校の設備購入などに充当して利益をすべて還元した。校内各準備室事務室間の校内電話と交換機などの設置はこの例である。

  1.3 指導
 校則については本校生とほとんど同じとし下校時刻のみ実情に合わせて遅くした。生徒指導面では特に問題となるような生徒はいなかった。この点が本校生とは最も異なる優れた点である。
 授業については、英、数、国を中心とし、これに理科、社会を加えた。教室は1つなので複数科目の同時開講はできないので、授業のために不要な科目の時間は図書館などで自習することとした。
 講師には、英、数、国では大学および大手予備校から有名な先生を招き、それに本校の先生を少し加え、理科と社会は本校の先生のみで担当した。物理は補習科発足から廃止されるまで私1人で担当した。
 テストは年7回校内で作成した問題で行い、これを標準偏差により10段階評価とし、この値を用いて受験指導を行った。これによる合格予想確率は非常に高く、この方法は年を重ねるごとにデータが蓄積され確率は向上して私が主任をした昭和38年・39年頃に最高80%くらいになった。その当時在科生約150人の中半数は東大、東工大、一橋他有名国立大学、残りの半数の多くは早大、慶大に合格し、それ以外の大学は少数であった。
 また年2回(前期終了時7月と年末12月)PTAを開催し、特に12月は8日(入試の決戦に望む日)に父母および生徒と我々との面談により受験校の決定を行った。この会には在籍150人中の大部分の人が出席され、我々係3人で分担しても1日で終わらず2日目も夜9時過ぎまでかかるという熱心な話し合いが行われた。この熱意は現役3年生と比較にならず、我々も心身ともに疲れ切ったがそれだけ充実感もあった。

  1.4 通学定期券問題
 私の前代の主任、塩野入氏のときから生徒数が急増し、生徒の電車通学における定期券の購入希望が強くなり、我々も小山台高校卒業生というよりは4年生という感覚をもっていたので通学定期券の購入は当然のことと思い込んでいた。ところが生徒が東急目蒲線武蔵小山の駅で申し込んだところ拒否されたので驚いて問い合わせてみると、多くの予備校は東京都から学校法人として認可されているので、そのような条件がないと許可できない規則になっているとのことであった。
 補習科は設立当初より東京都教育委員会に認可の申請を毎年行っているが、設立者の一人(柴田周吉氏)が都の教育委員であるためであろうが、新制に対して認可もせず却下もされず申請は受理されたままになっている。そこで、これでも通学定期券を少なくとも東急線に限って発行してもらう方策を研究した。駅長の話によれば本社の運輸部で許可されれば発行してもよいということであった。
 早速いろいろな面から東急電鉄運輸部長にお願いしたが、東急本社の重役会議で可決されなければできないということになった。そこで東急本社(社長 五島慶太氏)に最も影響力のあるところは東急の母体行(このときは日本興業銀行)または社長の友人などであるという判断により、それぞれを補習科PTAの役員の方で関係されている方があったので、その方を通して東急社長にお願いしていただいた。間もなく重役会議で了承していただきこれ以後東急の通学定期券が正式に購入できることになり、電車通学の生徒の経済的負担も軽減することができた。
 塩野入氏と私とで夜まで大変苦労したことが思い出される。会社にたった1つの単純なことを了解してもらうことがいかに用意でないかということが身にしみてわかった。このことを通して会社に最も影響力をもっているのは、その会社に融資している銀行であることもよくわかった。これは今後の社会生活での1つのポイントであると認識した。
 平成8年に起きた政治経済の大事件、住専問題も融資銀行(母体行)との関係が大きく、会社と銀行の関係がいかに強いかということが示されている。

  1.5 補習科廃止
 私が主任をした後の3年間(昭和40年より43年3月)主任をshちあ三橋氏まででこれだけ成果を上げた補習科も、残念ながら東京都の命令で廃止されることなった。
 この経緯をこの際書き残しておきたい。当時都立のいくつかの高校(いわゆる進学校)には補習科が設置されていた。しかし、これは何れも徒が認可したものではない。あるとき東京都議会で委員の一人公明党の伊藤氏により次のような点が問題にされた。
 補習科では都の教員が勤務時間中に補習科の授業を担当し、それに対して報酬(講師手当)を得ていることは勤務中のアルバイトとなり公務員法違反であること。
 更に、無料で都の施設である教室などを用いていることにも問題がある。このような違法性を指摘され、止むなく全都立高校補修科を廃しする決定が下された。
 このようにして昭和33年4月以降苦労を重ね、小山台高校の進学成績を最大限まで向上させた補習科は、昭和43年3月までの10年間で終止符を打ち再開されることはなかった。これ以後群制度と相俟って小山台高校の有名大学合格数は激減してしまった。

 (付表)補習科分担
 昭和33年度 (主任) 鵜川 (係) 川又 瀬戸 井沢
 昭和34年度 (主任) 鵜川 (係) 勢山 川又 平井
 昭和35年度 (主任) 塩野入 (係) 勢山 八乙女 奥野
 昭和36年度 (主任) 塩野入 (係) 坂井 八乙女 奥野
 昭和37年度 (主任) 塩野入 (係) 落合 八乙女 奥野
 昭和38年度 (主任) 八乙女 (係) 塩野入 不島 奥野
 昭和39年度 (主任) 八乙女 (係) 勢山 三橋 奥野
 昭和40年度 (主任) 三橋 (係) 中山 野沢 奥野
 昭和41年度 (主任) 三橋 (係) 野沢 原口
 昭和42年度 (主任) 三橋 (係) 落合 斉藤

 外来講師(敬称略)
 英語 高村新一、加賀谷林之助(平成8年時点で故人)、大島好道、藤川玄人、羽根田俊治(平成8年時点で故人)
 国語 峰村文人
 数学 早川庚弌、丸山茂彌



参考情報

「計装プラザ」代表取締役 佐鳥聡夫(さとりとしお)さん(高7回)のWebサイトに「私の歩んだ道 八乙女盛典」電子書籍版が掲載されています。
「高校時代の恩師の自伝を紹介します」

書籍は菊桜会にも寄贈いただき、こちらでスキャンしたものもありますが、上記サイトはテキストファイルからPDF化しているので、利用価値が高いので紹介しています。


関連項目

着任:1949年 5月31日
退任:1970年 7月31日



関連事項

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脚注: ・

2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
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